2021年11月30日 (火)

学校のストーブ

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現在では学校にも空調設備が完備され、エアコンを使用することで、四季を通して快適に過ごすことが出来るようになった。

しかし、私が学生の頃は、夏は教室の窓を開けて自然の風で涼み、冬は教室に大きなストーブを設置することで暖を取っていた。

早い話が室内とはいえ、夏は暑く、冬は寒かったのである・・・・・・。


で、今の季節はストーブが登場することになる訳だ。
今ではもう教室にストーブが置かれている学校なんてないのだろうが、私が小学生のころ教室に置かれていたストーブは、円筒形のとても大きなものだった。


こんな形のストーブはお店では見たことがなかったので、恐らく学校などの施設専用に作られたものなのだろう。
教室に置かれていたストーブは黒い円筒形をしていて、まるで太い丸太を切り出して、それを立てて置いてあるような印象だった。


家庭用のストーブと違うのは、本体の形状だけではなかった。
ストーブの側面からは、長い銀色の煙突が天井に向かって真っすぐに伸びていたのだ。


煙突は天井近くまで伸びてから、急に直角に曲がり、窓の上の壁に開けられた丸い穴から外へ出ていた。
このためストーブは、教室の前方の窓際にスペースが作られ設置されていた。


そしてストーブの周辺には、床にビニールテープが四角く貼られて、その枠に沿って金属の柵が設置されていた。
これは言うまでもなく、「危険だからこれ以上は近付くな!」という意味である。


小学生の頃というのは、友達同士ふざけ合って、机や壁に激突しているやつがしょっちゅういたので、もしこの柵がなかったら、大惨事になっていた可能性も無きにしも非ずである。


というのも、当時学校にあったストーブは、一度火を入れると、ストーブ本体のどこを触っても、火傷をするほど熱くなっていた。
もし、ふざけてバランスを崩して手でも付いたら、まず間違いなく病院送りである。


また、ストーブには大きな丸いやかんが常に置かれていて、まるで蒸気機関車のように、絶え間なく湯気を上げていた。
もし、ストーブに激突でもしたら、この煮えたぎったお湯も、きっと全身で受け止めることになっただろう。
もはや病院送りどころか、命に関わる話である。


いま考えると、当時はよくこんな危険なものを、教室に置くことが許可されていたものである。
いまだったら、危険性云々よりも、消防法にひっかかり、初めから設置すること自体、出来ないのではないだろうか。


当時は他に部屋を暖める手段がなかったと言えばそれまでだが、ストーブが危険物なら小学生だってある意味危険物だったのだ。
いや、ストーブより危険だったと言えなくもない。


そんな危険なもの同士を同じリングに上げて、一度も事故が起こらなかったというのは、もはや奇跡としか言いようのないことである・・・・・・。


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小学生の頃、席替えがある時は、窓側の席が特に人気だった。
なぜかというと、夏は窓から入って来る風が心地よく、冬はストーブに近かったので、暖かかったからである。


ところが夏はまあいいとして、冬場に関してはちょっと注意が必要だった。
教室に設置されていたストーブは、大きくて火力も強かったので、ストーブの真ん前の席になってしまうと、寒くはないが逆に熱かったのだ。


しかもそれは、「ちょっと熱いかな~」というレベルを優に超えて、密教の護摩行をしながら授業を受けているような状態と言っても過言ではなかった。
このためストーブの前の席の者は、いつも鬼のように赤い顔をしていて、うつろな目をしながら、黒板の文字をノートに書き写していた。


ある日、ストーブの前の席のKくんが、授業が終わった後、ノートを持ったまま、廊下に「ボー」っと立ち尽くしていたことがあった。
みんなが心配して、「どうしたのか?」と聞いたところ、真っ赤な顔をしながら、「なんだか頭がボーっとしちゃって」と言いつつ、フラフラと歩き出し、流し台まで行って、水道の水を狂ったようにガブガブ飲み始めた。


そしてその時に、「ちょっと持ってて」と手渡されたノートには、社会科の授業を受けていたはずなのに、なぜか数字とアルファベットの、見たこともない暗号のようなものがびっしりと書かれていて、みんなで顔を見合わせてゾッとしたのを覚えている。


いま考えると、あれって数学の公式だったんじゃないかと思うのだが、小学校低学年でそんな難解な公式を知っているはずはない。
いまとなっては確かめようもないが、あの時Kくんはいったいどこにトリップしていたのだろう。
そしてあの時ほど、「教室のストーブ恐るべし」と思ったことはなかった・・・・・・。


(画像上、トウカエデは都市部でも綺麗に紅葉する樹木だ。画像下、晩秋から初冬にかけて咲くヒイラギの花)


2021年11月24日 (水)

「謎フレーズ探偵」ハゲの数え歌 ③

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前回までの調査で、「ハゲの数え歌」にはどうやら2つの系統があることが分かった。
で、今回はいよいよ、「ハゲの数え歌」の元歌を探って行こうという訳なのだが、その前に「ハゲの数え歌」の2つの系統について、ちょっとおさらいをしておこうと思う。


「ハゲの数え歌 ①」

ひとつふたつはいいけれど
みっつ、三日月ハゲがある
よっつ、横ちょにハゲがある
いつつ、いつでもハゲがある
むっつ、向こうにハゲがある
ななつ、ななめにハゲがある
やっつ、やっぱりハゲがある
ここのつ、ここにもハゲがある
とうで、とうとうつるっぱげ


「ハゲの数え歌 ②」

ひとつ、人よりハゲがある
ふたつ、不思議なハゲがある
みっつ、三日月ハゲがある
よっつ、横にもハゲがある
いつつ、いつでもハゲがある
むっつ、向こうにハゲがある
ななつ、ななめにハゲがある
やっつ、やっぱりハゲがある
ここのつ、ここにもハゲがある
とうで、とうとうつるっぱげ


ここでは、「ハゲの数え歌」の2つの系統の、最もオーソドックスと思われる歌詞のものを、それぞれ1つずつご紹介した。
「ハゲの数え歌 ①」と「ハゲの数え歌 ②」の違いは、①では冒頭の歌詞が、「ひとつふたつはいいけれど」と歌われているのに対して、②では「ひとつ」と「ふたつ」にも、それぞれ歌詞が割り当てられているところである。

とはいうものの、このオーソドックスなものに関しては、歌詞は見ての通り、どちらもほとんどいっしょで、普通に考えたらこれはどちらも1つの元歌から派生して行ったと考えるのが自然なのではないだろうか。


ところが調べてみると、どうもそんな単純な話ではないようなのだ。
そんな訳で、まずは「ハゲの数え歌 ①」の元歌について探って行きたいと思う・・・・・・。


じつは今回、「ハゲの数え歌 ①」について、色々な人に聞き込みをしていた時、元歌についても知らないものかと、必ずセットで質問をさせてもらっていたのだが、それらしいことを知っていたのは、期待に反して、たった2人だけだった。


で、元歌の詳細まで知っていたのは、このうちの1人だけで、その1人というのが、「レインボーマンの替え歌」の調査の時に、情報提供をして下さったAさんだったのだ・・・・・・。


Aさんはあっさり、「(ハゲの数え歌①の)出所はドリフだよ」と教えてくれた。
Aさんの話によるとハゲの数え歌は、「8時だョ!全員集合!」の「少年少女合唱隊」というコーナーで、ネタとして披露された歌だったらしい。


「ハゲの数え歌」が小学校で流行っていたことは、なんとなくだが覚えている。
そして、「8時だョ!全員集合!」も当時は毎週かかさず見ていた。
しかし番組の中で、「ハゲの数え歌」が歌われていたのは、ちょっと記憶にない。


そこでそのことをAさんに伝えると、「ハゲの数え歌はドリフに荒井注がいた頃のネタだから、くろねこくん(私のこと)は知らない世代なんだろう」とのことだった。
確かに私は荒井注さんが、ドリフターズの元メンバーだったということは、大人になるまで知らなかった。


更にAさんは、「ハゲの数え歌は、荒井注がいなければ、決して成立しないネタだったんだよ」とも言う。
じつは当時、荒井注さんはハゲキャラとしてコントでネタにされることが多かったそうなのだ・・・・・・。


そして驚いてしまうのは、この「ハゲの数え歌」を番組で初披露したのは、なんとドリフのメンバーではなかったというのだ。
Aさんが言うには、「ハゲの数え歌を番組で最初に歌ったのは、ゲストの由紀さおりだった」のだそうだ。


そういえば、「8時だョ!全員集合!」には、よく歌手がゲストに来ていて、コントに参加していたのを覚えている。
Aさんは「歌詞のバカバカしさだけではなくて、由紀さおりが歌っていたという意外性が、当時の子供たちにウケたのだと思う」と言う。


で、この情報を元に調べてみると、当時番組の中で、由紀さおりさんが歌ったという元歌が判明したのでご紹介しておく。
それがこちら(↓)。


「ハゲの数え歌 ①(元歌)」

ひとつふたつはいいけれど
みっつ、醜いハゲがある
よっつ、横にもハゲがある
いつつ、いつでもハゲがある
むっつ、向こうにハゲがある
ななつ、ななめにハゲがある
やっつ、やっぱりハゲがある
ここのつ、ここにもハゲがある
とうで、とうとうつるっぱげ


細かく見て行くと、情報を提供してくれた皆さんが覚えていた歌詞とは、微妙に違っていることが分かる。
当時はまだ、ビデオデッキもまともに普及していなかった時代だ。


やはり放送を見ただけではうろ覚えだったのだろう。
そしてそれが更に、人から人へ伝わる際に、少しずつ歌詞が変化して行ったのだろう。


ちなみに荒井注さんがドリフターズに在籍していたのは、1974(昭和49)年の3月までだったそうだ・・・・・・。


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さて、ここからは、「ハゲの数え歌 ②」へ移ろう。
じつはこれについても、Aさんが詳細を知っていた。
もはやAさんに記事を書いてもらった方が早いのではないか。


まず、最大の疑問である、「ハゲの数え歌①と②の出所は、はたしていっしょなのか?」についてだ。
これについてAさんは、「出所と言う意味では違うと思う」とのことだった。


「ハゲの数え歌 ②」の元歌を探る上でヒントとなるのが冒頭のフレーズ、「ひとつ人よりハゲがある」の部分。
これは1970(昭和45)年10月から、2年間に渡ってテレビ放映された人気アニメ、「いなっかっぺ大将」の主題歌の冒頭のフレーズに大変よく似ている。


私は「いなかっぺ大将」の本放送当時は、まだ生まれていなかったので知らないのだが、その後の再放送については、何回も放送されていたこともあって、この主題歌についてはよく知っている。


ちなみに主題歌の方は、「ひとつ人より力持ち」と歌われている。
そしてこの「いなかっぺ大将」の主題歌のタイトルは、「大ちゃん数え唄」なのである。
もはやこれは疑いようもないだろう・・・・・・。


そしてここで2つ目の疑問。
なぜ、この2つの「ハゲの数え歌」は、歌詞がかぶっているのか。


これについては、同じハゲを題材にした数え歌ということで、どちらかが歌詞をそのまま借用させてもらった、言い方を変えるなら、強く影響を受けたと考えるのが、自然なのではないだろうか。


そこで調べてみると、2つのハゲの数え歌は、ほぼ同時期に小学生の間で流行っていたことが分かった。
だから、「どちらが先か?」ということについては、正直よく分からなかった。


ただ、「ハゲの数え歌 ②」については、誰が最初に歌ったという記録は残っていなくて、自然発生的に子供たちの間で歌われ始めていることから、個人的には「ハゲの数え歌」としては、①が元ネタだったのではないかと思っている。
当時の子供たちにとって、ドリフの影響力はやはり絶大だったのだ。


ということで、この2つの「ハゲの数え歌」は、それぞれ出所は違っていたものの、どうやら兄弟のような関係だったということだけは確かなようである・・・・・・。


(画像上、秋の野の花の代名詞ノコンギク。画像下、桜は秋早くから紅葉が始まる・・・・・・)

2021年11月18日 (木)

「謎フレーズ探偵」ハゲの数え歌 ②

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前回から「ハゲの数え歌」についての調査を始めた。
そして調査を進めて行くと、「ハゲの数え歌」には大きく2つの系統があることが分かった。
前回はそのうちの1つをご紹介したのだが、忘れてしまっているかたもいると思うので、ここでちょっとおさらいをしておこう。


「ハゲの数え歌(オーソドックスなもの)」

ひとつふたつはいいけれど
みっつ、三日月ハゲがある
よっつ、横ちょにはげがある
いつつ、いつでもハゲがある
むっつ、向こうにハゲがある
ななつ、ななめにハゲがある
やっつ、やっぱりハゲがある
ここのつ、ここにもハゲがある
とうで、とうとうつるっぱげ


前回はこのオーソドックスな歌詞のものを基本として、いくつかの歌詞のバリエーションをご紹介した。
そしてこの系統は、冒頭の歌詞が必ず、「ひとつふたつはいいけれど」になる特徴がある。


また、歌詞にバリエーションがあるとは言うものの、そのいずれもが、全体の歌詞の半分近くがきれいに重なっており、これはどう考えても元歌があるとしか思えない状況だ・・・・・・。


で、今回はこの「ハゲの数え歌」の元歌を探る前に、これとは別系統と思われる「ハゲの数え歌」の方もご紹介しておこうと思う。
ちなみに歌詞については、先にご紹介している、「ハゲの数え歌A~C」とほとんどいっしょと思ってもらっていい。
「それなのになんでこれを別系統と言っているのか?」という所に注目して、読み進めて行ってもらいたい。
それではどうぞ(↓)。


「ハゲの数え歌(D)」

ひとつ、人よりハゲがある
ふたつ、不思議なハゲがある
みっつ、三日月ハゲがある
よっつ、横にもハゲがある
いつつ、いつでもハゲがある
むっつ、向こうにハゲがある
ななつ、ななめにハゲがある
やっつ、やっぱりハゲがある
ここのつ、ここにもハゲがある
とうで、とうとうつるっぱげ


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どうだろうか、なぜ私がこれを別系統と言ったのか、その理由が分かってもらえただろうか。
そう、これまでの「ハゲの数え歌A~C」では、歌い出しが必ず、「ひとつふたつはいいけれど」だったのだが、この「D」では「ひとつ」と「ふたつ」にも、それぞれ別個に歌詞が割り当てられているのだ。


それでは、この別系統の「ハゲの数え歌」をもう1つご紹介しておこう(↓)。


「ハゲの数え歌(E)」

ひとつ、人よりハゲがある
ふたつ、ふもとにハゲがある
みっつ、右にもハゲがある
よっつ、横にもハゲがある
いつつ、いっぱいハゲがある
むっつ、向こうにハゲがある
ななつ、なんだかハゲがある
やっつ、やっぱりハゲがある
ここのつ、ここにもハゲがある
とうで、とうとうつるっぱげ


じつはこの別系統と思われる「ハゲの数え歌」は、これ以外にも2、3見られたのだが、それらは「D」の歌詞のものが、ワンフレーズだけ他のものにすり替わっているだけだった・・・・・・。


で、ここで問題になって来るのが、前回ご紹介した「ハゲの数え歌A~C」と、今回ご紹介した「ハゲの数え歌D~E」は、はたして元歌は同じものなのかということである。


全体の歌詞については、確かにどちらの系統もほとんどいっしょで、普通に考えたら、「同じ一つの歌から派生して行ったものなのではないか?」と思ってしまう。
ところが調査を進めて行くと、これがどうもそうではなさそうなのである。


という訳で、次回はいよいよ大詰め、2つの系統があることが判明した、「ハゲの数え歌」の元歌について迫って行きたいと思っている・・・・・・。


(画像上、都市部でもお馴染みの秋の花、セイタカアワダチソウ。画像下、カメラを向けたらうんちをした、クルマバッタモドキの褐色型)

2021年11月12日 (金)

「謎フレーズ探偵」ハゲの数え歌 ①

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以前、「でぶでぶひゃっかんでぶの歌」の記事を書くために、いろんな人に話を聞いて回っていた時、「そう言えば、ハゲの数え歌ってのもあったな!」と、偶然何かを思い出して一人で笑い出した人がいた。
どうやら、「でぶでぶひゃっかんでぶの歌」の最後のフレーズ、「ひかるはおやじのハゲ頭」が、ハゲの数え歌を思い出すきっかけになったらしい。


しかしその時は、「でぶでぶひゃっかんでぶの歌」の調査をしている真っ最中で、同時進行で他の歌の調査までする余裕はなかったので、「ハゲの数え歌」については、また改めて話を聞かせてもらうことにしていた・・・・・・。


で、今回ようやく時間が出来たので、改めて「ハゲの数え歌」について、詳しく話を聞きに行って来たという訳だ。
ちなみに「ハゲの数え歌」というのは「通称」で、実際はどんなタイトルだったのかはよく分からないとのことだった。
そしてこのとき教えてもらった、「ハゲの数え歌」がこちらになる(↓)。


「ハゲの数え歌(A)」

ひとつふたつはいいけれど
みっつ、三日月ハゲがある
よっつ、横ちょにハゲがある
いつつ、いつでもハゲがある
むっつ、向こうにハゲがある
ななつ、ななめにハゲがある
やっつ、やっぱりハゲがある
ここのつ、ここにもハゲがある
とうで、とうとうつるっぱげ


ご覧の通り、「どうしようもね~」歌である。
しかしこの歌、私はなんだか聴いたことがあるような気がするのだ。
ということは、以前調査した、「でぶでぶひゃっかんでぶの歌」と同様に、昭和50~60年代に小学生の間で流行っていた歌だったのかもしれない・・・・・・。


そこでいつものメンバーに協力を仰ぎ、「ハゲの数え歌」の調査を本格的に始めることにした。
で、調査を進めて行くうちに分かって来たことは、「でぶでぶひゃっかんでぶの歌」を知っていた人は、「ハゲの数え歌」についても知っていた、もしくは聴いたことがあると答えた人が多かったということだ。


ということは、やはり「ハゲの数え歌」は、「でぶでぶひゃっかんでぶの歌」と同時期に流行っていたということになるのだろう。
で、この「ハゲの数え歌」、調べて行くと、歌詞にいくつかのバリエーションがあったので、続けてご紹介してみたいと思う・・・・・・。


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「ハゲの数え歌(B)」

ひとつふたつはいいけれど
みっつ、みんなにハゲがある
よっつ、横にもハゲがある
いつつ、いっぱいハゲがある
むっつ、むこうにハゲがある
ななつ、ななめにハゲがある
やっつ、やっぱりハゲがある
ここのつ、ここにもハゲがある
とうで、とうとうつるっぱげ


「ハゲの数え歌(C)」

ひとつふたつはいいけれど
みっつ、右にハゲがある
よっつ、横にハゲがある
いつつ、いつものハゲがある
むっつ、むこうにハゲがある
ななつ、なんだかハゲがある
やっつ、やっぱりハゲがある
ここのつ、ここにもハゲがある
とうで、とうとうハゲ頭


じつはこの「ハゲの数え歌」、これ以外にも、いくつか歌詞が違うものが出て来たのだが、基本的には最初にご紹介した「A」の歌詞と全くいっしょで、ワンフレーズだけ別の歌詞にすり替わっているものばかりだった。
そして、「B」と「C」に関しても、歌詞は「A」と半分近くが重なっており、これはどう考えても、元歌があったはずである・・・・・・。


歌詞が変化している部分に関しては、人から人へ伝わる際に、聞き間違えて覚えてしまっていたり、今回思い出してもらった時に、記憶があいまいな部分を、「こんな歌詞じゃなかったかな」と、無意識のうちに補完してしまったとも考えられる。


現実に以前調査した、「でぶでぶひゃっかんでぶの歌」に比べると、歌詞をはっきりと覚えていた人は少なくて、みんな思い出すのに時間がかかっていた。


そしてこの「ハゲの数え歌」、今回ご紹介したもの以外に、もしかしたらこれは別系統なんじゃないかと思えるものがいくつかあった。
元歌を探る前に、次回はそこから手をつけてみたいと思っている・・・・・・。

(画像上、スイフヨウは花期が長くて、まだ咲いている。画像下、イボバッタは都市部でも普通に見られる・・・・・・)


2021年11月 6日 (土)

避難訓練の思い出

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小学生の頃、防災訓練がある日は、朝からそわそわして落ち着かず、授業に身が入らない者が多かった。
何しろ防災訓練の時は、何時間目に避難を促す放送が入るのかは、事前には何も知らされていないのだ。
突然、なんの前触れもなく、けたたましく鳴り出すサイレンは、心臓に悪いことこの上ない・・・・・・。


このため教室では登校直後から、何時間目に避難放送が入るかについて、様々な予想がされていた。
予想はまず、「ありそうな時間」ではなく、「なさそうな時間」を潰して行くことから始まる。


多くの者が最初に思うのは、「1時間目はいくらなんでもないだろう」ということだった。
朝はまだ、誰しもがエンジンがかかっておらず、素早い避難など出来ようはずがない。
そしてそれは先生たちも同じはずだ。


次に5時間目、6時間目もないだろう。
なぜなら1年生は5時間目が終われば、もう下校の時間だ。


そんな帰り間際の時間に避難訓練を行うなんて、はっきり言ってただの嫌がらせである。
6時間目に至っては、もう1年生は帰った後で、1年生不在の状況で訓練をやったって、なんの意味もないだろう。


となると、避難放送が入るのは、「2時間目から4時間目のどこか」ということになるだろう。
ここで多くの人が思うのは、「4時間目は頼むからやめて欲しい」ということだ。
訓練が予定通りに終わればいいが、もし長引いてしまったら、給食の時間が遅れるばかりか、昼休みも短縮されてしまうことになるだろう。


そんな訳で、我々の希望的観測としては、満場一致で2時間目か3時間目ということになった。
あとは自分の嫌いな教科の時間にサイレンが鳴り出してくれるのを祈るのみである・・・・・・。


2時間目の授業が始まると、先走って、いつも尻に敷いている防災頭巾を、早々に頭に被って授業にのぞむ者が現れた。
さすがにそれは担任に「フライングだ」と注意され、防災頭巾は尻の下に戻されることになる。


しかし、けたたましいサイレンと共に、「訓練、訓練、地震発生!」の放送が入ったのは、その直後のことだった。
「防災頭巾を被って、机の下で安全確保!」という担任の指示を待たずに、みんな机の下へさっさと潜り込んで行く。


担任はその間、棒のようにつっ立ったまま、訓練のタイムスケジュールに目を通しながら、次の放送の指示を待っている。
一応、出席簿を頭に乗せて、頭部を守っているようだったが、そんなものは何の役にも立たないことは子供だって分かる。
思わず、「教卓の下に入って安全を確保しなくちゃダメだろ!」とつっこんでやりたくなる・・・・・・。


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そして、「揺れが治まったので、各クラスは避難を開始して下さい」という放送が入る。
いよいよ校庭への避難が始まるのだ。


避難は階段から遠いクラスから順番に行われる。
担任は入り口のドアを開け、避難の進み具合を確認している。


廊下側の窓からは、防災頭巾を被った子供の行列が、ぞろぞろと廊下を行進して行く様子が見て取れる。
なんだか資料映像でよく見る、防空壕へ避難しに行く、戦時中の子供たちのようである。
その光景はなんとも非日常的で、ちょっと異様な光景にも見えたものである・・・・・・。


そして担任は隣のクラスの列が、避難を始めたのを確認すると、「よ~し、そろそろ行くぞ~!」と自分のクラスの生徒に声を掛ける。
「避難をする時は整列して」と指示されていた訳ではなかったが、不思議なものでいつの間にか、自然と男女1列ずつになっていた。
習慣というのは恐ろしいものである。


避難をする時は、「私語は慎め」、「走るな」が基本であったが、もし本当に大地震があったら、みんなパニックになって、そんなことは絶対に無理であろう。
そして、「階段から遠いクラスから順番に避難」という決まりも、はたして守れるのだろうか。


今にも余震が来るかもしれないという状況で、廊下の奥のクラスが、自分のクラスの前を通過して行っているのを、指をくわえて、馬鹿みたいに、「ボケ~」と眺めていることなど出来ないのではないか。
極端な話、一刻も早く外へ避難しなければ、校舎が崩壊して生き埋めになる可能性だってあるのである・・・・・・。


そして1階まで避難したところで、普段なら下駄箱で靴に履き替えるところだが、避難訓練の時には、なんと上履きのまま校庭へ直行する。
これにはちょっと抵抗があったが、命を最優先するなら当然の行動といえよう。


普段、友達とふざけ合っている時には、上履きで平気で外へ出て行こうとするのに、そういうやつに限って、いつもの習慣で律儀に靴に履き替えようとして、先生に注意されていて笑ってしまう。


しかし、訓練終了後は、そのままスタスタと校舎の中へ入って行ける訳ではなく、入り口で各自ぞうきんで、上履きの底を丁寧に拭かなければならず、面倒くさいことこの上ない。


しかもどんなに丁寧に靴底を拭いても、泥汚れというのは、そう簡単に取れるものではなく、訓練から1週間程度は床の汚れが酷くて、掃除当番がえらく大変になるのだった・・・・・・。


そして上履きのまま外へ飛び出すと、校舎の入り口付近や校庭の各所に、避難誘導の先生が立っていて、「ダラダラするな、急げ!」などと、ハッパをかけて来るのだ。


そして校庭の所定の場所へ、全学年、全クラスが整列したところで、避難訓練は一応は終了ということになる。
ところがこの後、防災担当の教師から、今回の訓練についてのダメ出しが始まるのだ。


今でもはっきりと覚えているが、冒頭のセリフは毎年決まって、「お前ら、こんなことしてたら死んじまうぞ?」だった。
そしてここから、「こんなこと」についての詳細が、延々と20~30分語られて行くことになるのである・・・・・・。

(画像上、花期が長いハギの花があちこちで咲いている。画像下、クルマバッタモドキの緑色型がひょっこり姿を現した・・・・・・)


2021年10月31日 (日)

幻の任天堂プレイステーション

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▲もし、スーパーファミコンのCD-ROMアダプタが、SONYから予定通り発売されていたら、画像の「PlayStation」は発売されていなかったかもしれない・・・・・・。

1989年頃だったか、ファミコン専門誌上で、とある噂が流れたことがあった。
その噂とは、当時家庭用ゲーム機の主役であった、スーパーファミコンの周辺機器として、近い将来、SONYからCD-ROMアダプタが発売されるというものだった。


当時はまだ、CD-ROMが出始めの頃で、家庭用ゲーム機でCD-ROMを採用していたのは、「PCエンジン」の周辺機器として発売された、「CD-ROM2システム」ぐらいだった。


当時はゲームソフトの供給は、まだまだカートリッジが主流の時代だったのだ・・・・・・。


で、当時のファミコン専門誌上に出た記事には、「SONY製のCD-ROMアダプタは、恐らくこんな形になるだろう」という想像図もすでに掲載されていた。
それによると、スーパーファミコンのCD-ROMアダプタとされるものは、スーパーファミコン本体の下に、重ねて設置する箱型の機器のようで、イメージとしては、ファミコン時代のディスクシステムのような感じだった。


ただし、色やデザインはスーパーファミコン本体ときれいに統一されていて、記事のイラストからは、違和感のようなものはいっさい感じられなかった。
一体感という意味では、1991年に発売になった、「メガドライブ」の周辺機器の、「メガCD」のようなイメージと思ってもらえればいいかと思う・・・・・・。


そしてこの時、ファミコン専門誌に想像図が掲載されていたのは、前述のCD-ROMアダプタだけだったのだが、どうやらSONYは、「スーパーファミコンとCD-ROMアダプタを一体型にしたマシン」も、それと同時に開発していたようなのだ。


ファミコン時代に家電メーカーのシャープから、ファミコン本体とディスクシステムを一体型にした、「ツインファミコン」が発売になったが、コンセプトとしてはこれと同様のものだったのだろう。


任天堂は当初、SONYが開発している「CD-ROMアダプタ」を、玩具流通で任天堂ブランドとして発売し、「スーパーファミコンとCD-ROMアダプタの一体型マシン」を家電流通で、SONYブランドとして発売する考えだったらしい。


そしてこの「CD-ROMアダプタ」と、「スーパーファミコンとCD-ROMアダプタの一体型マシン」の開発コードネームが、みなさんもよくご存じの「Play Station」だったのである。


ちなみにプレイステーションとは、業務用の高性能コンピューターの「ワークステーション」と、遊ぶという意味の「プレイ」を融合させて作った造語だったようだ。


そしてすでにお気付きのように、もともとの「Play Station」は、SONY独自のゲーム機として開発されていたのではなく、任天堂のスーパーファミコンの周辺機器として開発されていたものだったのだ・・・・・・。


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▲これはスーパーファミコンのコントローラーだ。もし、SONYから「スーパーファミコンとCD-ROMアダプタの一体型マシン」が予定通り発売されていたら、同梱されるコントローラーは、上部中央にプリントされている「Nintendo SUPER FAMICOM」の文字が、「SONY Play Station」になる予定だった・・・・・・。

で、その後、契約の問題などがあって、この話は流れてしまい、結局スーパーファミコンの「Play Station」は発売されなかったのだが、じつはこの時すでに、「Play Station」は完成していたとも言われている。


現実に1991年6月にシカゴで開催された家電見本市で、SONYは「Play Station」の試作機を発表している。
そして任天堂がSONYとの契約を破棄すると発表したのは、なんとその翌日のことだったのである。


で、このとき任天堂は、「フィリップスと提携して、CD-ROMアダプタを発売する」とも発表しているのだ。
ところが、そのフィリップスが開発していたCD-ROMアダプタも、どういう訳か結局は発売されなかったのだ。
もはや、「任天堂なにやってんの?」としか言いようのない出来事だった。


いま思えば、任天堂が迷走し始めたのは、ちょうどこの頃からだったように思う・・・・・・。


ところで前述の「Play Station」の試作機だが、二度と日の目を見ることはないと思われていたのだが、じつは最近海外でこれの実機が発見されている。
これを見ると、やはり見た目はファミコン時代にシャープから発売された、「ツインファミコン」によく似た形状のマシンであることが分かる。


カートリッジスロットは上部後方にあり、CD-ROMのディスクトレイは、前面スライド式になっている。
コントローラーはスーパーファミコンと全く同じものだが、中央のロゴマークは、「SONY Play Station」とプリントされている。


任天堂のスーパーファミコンのコントローラーに、「SONY Play Station」である。
なんだか見ているだけで、ワクワクして来るではないか・・・・・・。


そしてもし、このマシンが現実に発売されていたら、現在はいったいどんなテレビゲーム市場になっていたのだろう。
今となっては確かめようもないことだが、SONYは任天堂と決裂した後も、「Play Station」の名前はそのまま残し、CD-ROMドライブを搭載したゲーム機の開発を続けていた。


そしてその後、SONY独自のゲーム機の開発に成功し、テレビゲーム市場に新規参入を果たすことになったのは、皆さんもよくご存じの通りである・・・・・・。



2021年10月25日 (月)

「昭和の商店街」個人経営の小さな書店

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私が子供の頃は個人経営の小さな書店が、まだ町のあちこちにあったものである。
そのような店では、決まって「〇〇書店」と、店主のみよじが入った大きな看板を、軒の上に掲げていることが多かった。
町の本屋さんは、せいぜい畳2~3畳程度の広さの所が最も多く、広い店でも6畳程度の広さだったと思う。


このような店では店内が狭いので、売れ筋の雑誌は、店の外に大きな台を出して平面陳列されていた。
私が子供の頃は、今とは比べ物にならないくらい、子供の数が多かったので、店先に平面陳列されている雑誌は、そのほとんどが「小学一年生」などの学年誌だった。


今では考えられないことだが、当時は小学一年生から小学六年生、そして中学一年から中学三年、高校一年から高校三年までの、全ての学年誌が揃っていた時代だったのだ。
もっと言うなら、幼稚園や未就学の児童向けの雑誌もあったので、学年誌だけでかなりの売り場面積を必要としていた。


当時、学年誌が人気だったのは、ただの学習雑誌という位置付けではなく、漫画をはじめ娯楽要素の高いページが多かったからだ。
今となっては知る人は少ないが、国民的アニメに成長した「ドラえもん」や、一世を風靡した「あさりちゃん」などは、もともとは当時の小学生向けの学年誌から誕生した漫画だったのである・・・・・・。


そして中学、高校の学年誌になって来ると、表紙の趣からして、それまでのものとはガラリと変わる。
毎号、女性アイドルがカメラ目線で、にっこりとほほ笑んでいるのである。
いま思うと、タイトルがなければとても学習雑誌には見えなかった。


アイドル全盛と言われたあの当時は、その魅力に取りつかれてしまう男子生徒も多くいて、別に学年誌が欲しかった訳ではないのに、「本屋で〇〇ちゃんが、俺に微笑みかけていたから、ついつい買ってしまった」なんて馬鹿なことを言っているやつもいたくらいだ。


表紙一杯に写された、大きな顔写真が定番だったところをみると、どうやらそれが出版社の狙いだったのかもしれない。
欲しくもないのに学年誌を買ってしまった彼は、正に出版社の思惑に、見事にハマってしまっていたということになるだろう。


小学校高学年ぐらいになって来ると、じょじょに興味の幅が広がって行き、ジャンプやマガジンなどの漫画雑誌や、ファミコンやプロレスの専門誌を買う者が増えて来る。
そしてそれと同時に、学年誌からは離れて行く読者が増えて行くのだ。
いま思うと、表紙の女性アイドルの顔写真は、そんな読者を繋ぎとめるための、苦肉の策だったのかも知れない・・・・・・。


そんな一時代を築いて来た学年誌だったが、2009年ごろから廃刊が相次ぎ、現在では「小学一年生」、「入学準備小学一年生」、「季刊学習幼稚園」の3誌が残るのみとなった。
なんとも寂しい限りである。
インターネットで簡単に情報を入手出来る時代になったことや、少子化で子供の数が減少したことなどが、その要因になったと思われる・・・・・・。


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当時、町のあちこちにあった、個人経営の小さな書店では、月刊誌や週刊誌の定期購読も受け付けていた。
と言っても、出版社に料金を先払いして、毎号郵送してもらうという、現代でもお馴染みのあのスタイルではない。


店主に定期購読を頼んでおくと、毎号「取り置き」で1冊確保しておいてくれるのだ。
こうしておけば、発売日に店に買いに行ったはいいが、売り切れで買えなかったなんてことは起こらない。


当時はこのシステムを利用している客がたくさんいて、レジの奥にある取り置き棚には、紙袋に入れられて、〇〇様と書かれた雑誌がびっしりと詰まっていたものだ。
また、多い時には、レジが置かれているテーブルにも、取り置き雑誌が山積みにされていて、お釣りの受け渡しに支障をきたしていたこともあったぐらいだ。


当時はどこの家でも、近所の商店街で買い物をしていたので、夕方に晩御飯のおかずを買いに来たお母さんが、家族が取り置きしておいてもらった雑誌を、受け取りに立ち寄ることが多かった。
店主もそのことを心得ていて、客の姿が見えると、「〇〇さ~ん、雑誌入荷してるよ~!」と、声を掛けてくれたりしていたものだ・・・・・・。


また、店によっては、定期購読している雑誌が発売になると、わざわざ家まで配達をしてくれる所もあった。
まだ、当時は核家族化も進んでおらず、共働き家庭も少なかったので、今と違って家には必ず誰かしらいたため、このようなシステムが成り立っていたのである。


そしてこのような店では、なんと読み終わった雑誌の引き取りもしてくれていた。
今ではちょっと考えられないような話だが、当時は本当に何から何まで至れり尽くせりだったのだ。
理髪店や美容室などでは、客の待ち時間用に、たくさんの雑誌を置いているので、一般家庭よりも、この配達、引き取りのサービスはありがたかったらしい。


最近、近所の理髪店で聞いた話では、町内から個人経営の書店がなくなってしまった時、わざわざ隣町に一軒だけ残っている書店まで行って、定期配達を頼んで来たと言っていた。
その書店はまだ辛うじて残っていて、雑誌の配達を続けてくれているらしい・・・・・・。


本好きの私としては、近所に書店がないと非常に不便である。
ちょっと本を探したい時に、わざわざ電車に乗って、大きな本屋まで出向かなければならないからだ。
面倒くさいことこの上ない。


人は昔と比べて便利な世の中になったというけれど、個人的にはこのように不便に感じることも少なくない・・・・・・。


(画像上、今年は寒くなるのが早かったせいか、里山は早くも色付き始めている。画像下、横浜では今秋、南方系のチョウ、クロマダラソテツシジミが大発生している。ここまでの数を確認したのは初めてである・・・・・・)


2021年10月19日 (火)

「ドラえもん」ジャイアンリサイタル

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▲原作漫画のジャイアンの歌声といえば「ボェ~」である。もはやどんな歌を歌っているのかさえ分からない・・・・・・。

歌好きとして知られるジャイアンだが、皆さんもご存知の通り、彼の歌声は間違っても美声とは言いかねるようだ。
原作漫画では、「ボエ~」とか「ボゲェ~」、「ホゲ~」とか「オエ~」などと表現され、不思議なことにどんな歌を歌っても、全部そのようにしか聴こえない。
どうやらジャイアンの歌声は、歌詞を聴き取る事すら不可能なようなのだ。


更にその歌声を聴いた者は、めまいや吐き気、頭痛に襲われ、ドラえもんやのび太曰く、「命にかかわる」こともあるのだそう。
たまたま点けていたテレビで、ジャイアンの歌を聴いてしまった担任の先生が、その歌声の衝撃で気を失い、次の日、学校へ出て来られなかったというエピソードもある。


しかし、担任の先生は、普段ジャイアンの歌を聴く機会はめったにないからまだいいのだ。
問題は音楽の先生である。


音楽の先生はしょっちゅう彼の歌声を聴かなければならない立場にある。
あまりにひどい歌声だからと、耳を塞いでいたら、彼の歌を評価することが出来ない。


いったいどうやって乗り切っているのか、非常に気になるところである。
もしかして、さんざん聴かされて、もう慣れてしまい、抗体のようなものが出来ているのかもしれない・・・・・・。


そしてやっかいなことに、彼の歌声は聴いた者に健康被害をもたらすだけでなく、空気振動を引き起こし、窓ガラスや壁にヒビが入ることもある。
もはやここまで来ると、ちょっとした兵器と言っても過言ではないだろう。


きっと、彼ほどの能力は、各国の軍の研究機関が、喉から手が出るほど欲しいに違いない。
ジャイアンが人知れず、他国に連れ去られたりしないことを祈って止まない・・・・・・。


そんなジャイアンの歌声は、ドラえもんの秘密道具、「驚音波発振式虫退治機」を使って威力を増幅され、なんとネズミやゴキブリなどの、害虫駆除に使われたこともある。
どうでもいいが、「驚音波発振式虫退治機」って、なんだか中国語みたいである。


それにしても、この「驚音波発振式虫退治機」は、まるでジャイアンの歌声を利用することを前提に開発されたような機械である。
ジャイアンの歌声以外に、いったいどんな「驚音波」があるのか気になるところだが、彼の歌声以上の「驚音波」など、この世に存在しないのではないかと思うのは、きっと私だけではあるまい・・・・・・。


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▲リサイタルの時ジャイアンが乗っているのは木のみかん箱。現代の子供たちにはピンと来ないだろうが、ドラえもん連載開始当時の1970年代は、みかんやりんごはまだぎりぎり木箱で流通している時期があったのだ・・・・・・。

ジャイアンと言えばリサイタルだ。
会場はいつもの空き地で、ジャイアンはみかん箱を伏せてその上に乗り、「ボゲェ~」と熱唱する。
観客は地べたに直接座って、歌が終わるまで、ただひたすら耐えるというパターンが多い。


ちなみにここで言う「みかん箱」とは、現代のダンボール箱のことを指しているのではない。
ドラえもんの連載開始当初の1970年代は、まだぎりぎりみかんやりんごは、木箱に入れられて流通していた時期があったのだ。
木箱は丈夫なので、人ひとり乗ったぐらいでは、潰れたりすることはなかったのである。


ちなみに通常のスタイルのリサイタルで、最も被害に会っているのは、ドラえもん、のび太、しずかちゃん、スネ夫の4人で、それにプラスして、2~3名が運悪くジャイアンに見つかり、捕まっていることがある。


そして、通常のスタイルがあるということは、「通常ではないスタイル」もあるということになる。
そのような大掛かりなリサイタルを行う時には、空き地の入り口に、自分で看板やアーチを設置して、観客席には例のみかん箱をたくさん並べて、椅子代わりにしたりしている。


また、わざわざチケットまで作って、同級生を脅して売りつけるという暴挙に出ることもある。
ここまで来ると、もはや犯罪に近いのだが、特別何か問題が起きる訳でもなく、その後もジャイアンリサイタルは、いつも通り開催されている。


また、連載が進むと、ジャイアンリサイタルは更にエスカレート。
ジャイアンはドラえもんの道具にまで頼りだし、ど派手な衣装を作ったり、豪華なステージセットを組んだりと、やりたい放題になって来る・・・・・・。


原作漫画では、「ボェ~」とか「ボゲェ~」、「ホゲ~」とか「オエ~」などと、いったい何の歌を歌っているのかすら分からないジャイアンの歌声なのだが、14巻収録のエピソードでは、「まいにち、まいにち、ぼくらはてっぱんのお~~」と、珍しくちゃんと歌詞を聴き取ることが出来ていた。


ちなみにこの歌詞、昭和生まれの人なら、すぐにピンと来ただろう。
そう、1975年に発売され大ヒットした、「およげたいやきくん」である。
その売り上げ枚数は、なんと454万枚であったというから驚きだ。


そして次の曲は、「これっきり、これっきり、これっきりですかあ~~」と熱唱しているところを見ると、これはどうやら山口百恵さんの1976年のヒット曲、「横須賀ストーリー」だろう。
自信のオリジナル曲が多いと思われていたジャイアンだが、こんな流行りの歌もレパートリーにしていたようだ。


ところで、この時はジャイアンにしては珍しく、歌詞をちゃんと聴き取ることが出来ていた。
ということは、「いつもより少しはましな歌声だったのかな~?」とも一瞬は思ったのだが、歌が終わるのを、ただひたすら待ち続ける、ドラえもんやのび太、しずかちゃんやスネ夫の表情は、いつも通り苦悶に満ちたもので、ジャイアンの歌声は、歌詞が聴き取れようが、聴き取れまいが、どちらにしてもやっぱり強烈なようである・・・・・・。

2021年10月13日 (水)

「謎フレーズ探偵」レインボーマンの替え歌③

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前回までの調査で、レインボーマンの替え歌には、大きく3つの系統があることが分かった。
まず、1つ目は、「インドの山奥で」の次の歌詞が、「でんでん虫かたつむり」になるもの。
そして2つ目は、「インドの山奥で」の次の歌詞が、「でんでんでん六まめうまいまめ」になるもの。
そして3つ目は、「インドの山奥で」の次の歌詞が、「出っ歯のハゲ頭」になるものだ。


そしてそのいずれの系統の替え歌も、元歌(レインボーマンの主題歌)の原形を留めているのは、冒頭の「インドの山奥で」の部分だけだった。
その後のフレーズについては、レインボーマンとは一切なんの関係もなく、歌詞を次々と繋げて行く、しりとり歌になっていた。


ちなみに私は、本家のレインボーマンの放送については、1回も見たことがないし、当時小学生の間で流行っていたと言われる替え歌の方も、歌っていた記憶は全くない。


ただ、不思議なことに、替え歌のメロディだけは、なんとな~く聴いたことがあるような気もするのだ。
これについては、今回レインボーマンの替え歌について情報提供をしてくれたAさんが、私が「知らない」と言うので、替え歌を実際に歌って聴かせてくれたことで判明した。
そこでこの謎を解くためにも、ちょっとレインボーマンについて、色々と調べてみることにした・・・・・・。


まず、「愛の戦士レインボーマン」がテレビで放送されていたのは、1972(昭和47)年10月6日から1973(昭和48)年9月28日までだった。
本放送当時は毎週金曜日の午後7時30分からの30分枠で放送されていたようだ。
番組のジャンルとしては、東宝制作による特撮ものということになる。


そしてその後、再放送があったのかどうかは定かではないが、少なくとも本放送当時の私は、まだ幼過ぎてとてもこのような特撮番組を理解出来る年齢ではなかった。
だからレインボーマン自体を、「見ていなかった=知らなかった」というのは、当然といえば当然のことなのかもしれない。


ところがレインボーマンの替え歌の方はというと、じつはレインボーマンの放送から、じつに20年以上もの間、小学生の間で代々歌い継がれて来たそうで、むしろ元歌を知らないで歌っていた世代の方が多かったようなのだ。
だから私も替え歌の方は知っていてもおかしくはないはずなのだ・・・・・・。


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そして更に調査を進めて行くと、じつはレインボーマンは、1982(昭和57)年10月10日から1983(昭和58)年3月27日まで、TBS系列でアニメ版が放映されていたようなのだ。
本放送当時は毎週日曜日の午後1時30分からのサンデーアニメプレゼント枠で、「時空要塞マクロス」との2本立てで放映されていたという。


私はマクロスの方はなんとな~く記憶にあるが、レインボーマンの方はアニメ版の方も全く記憶に残っていない。
ということは、恐らく見ていなかったのだろう。


私の記憶にはないものの、レインボーマンは特撮版の放映から10年後に、アニメ版がテレビで放映されていたことが分かった。
恐らくこのことが、替え歌のロングランに少なからず影響していたのではないだろうか・・・・・・。


で、この話を今回の情報提供者のAさんに話したところ、「それだったら、CMの影響の方が大きかったんじゃないか?」と言われた。
私はAさんの言う「CM」についても、すっかり忘れてしまっていたので、Aさんに1から説明してもらったところ、「サザンサザン」という運動靴のCMに、レインボーマンの替え歌が使われたことがあったのだそうだ。
そして、「あのCMはさんまがやっていたから、影響力という意味じゃ、本家以上だったろうよ」と言うのだ。


そこでちょっと調べてみたところ、1987(昭和62)年にシューズメーカー、アキレスの運動靴、「サザンサザン」のCMで、明石家さんまさんが、確かにレインボーマンの替え歌を歌っていたようなのだ。
ただしこれは、本来の替え歌とは歌詞が違っていたようで、どうやらCM用に書き下ろされたものらしい。
そのCMに使われていた替え歌がこちら(↓)。


「CMの替え歌」

インドの山奥(で)
電報打った(ら)
らっきょが転が(り)
りきんだ拍子(に)
二年の春だ(よ)
予習も忘れ(て)
天下一品、サザンサザン


私がレインボーマンや、その替え歌については知らないのに、メロディだけはなんとなく聴いたことがあると感じていたのは、どうやらこのCM の影響のようだ。


そして、この運動靴のCMが放映された1987(昭和62)年は、レインボーマンの特撮版が放映されてから、じつに15年も後のことになる。
それにも関わらず、レインボーマンの替え歌がCMに採用されたということは、当時の小学生の間では、まだまだレインボーマンの替え歌が流行っていたということなのだろう。


そして恐らく、このCMが再ブレイクのきっかけとなり、その後もレインボーマンの替え歌は90年代まで、小学生たちの間で、脈々と歌い継がれて行くことになったのである・・・・・・。


(画像上、見事に枝垂れたハギの花。画像下、今年は二回咲いてくれたキンモクセイの花)

2021年10月 7日 (木)

「謎フレーズ探偵」レインボーマンの替え歌 ②

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前回からレインボーマンの替え歌について調査を始めた。
そしてレインボーマンの替え歌には、いくつかの特徴を持った系統があることが分かった。


で、前回ご紹介したものは、「インドの山奥で」の次の歌詞が、「でんでん虫かたつむり」になるものだった。
今回はこれとは別系統のものを、順を追ってご紹介して行きたいと思っている。
皆さんが覚えているレインボーマンの替え歌は、はたしてこの中にあるだろうか・・・・・・。


「替え歌 C」

インドの山奥(で)
でんでんでん六豆、うま~いま(め)
めーだーかーの学校は~、か~わ~の~な(か)
か~ら~す~、なぜ鳴くの~、からすはや~ま~(に)
にんにく食べたら屁が
ぽっぽっぽ~、ハトぽっぽ~


レインボーマンの替え歌は、いわゆる繋ぎ歌になっており、歌詞の()の部分は歌わずに、歌詞を次々と繋げて歌って行く「しりとり歌」である。
そしてこの替え歌Cでは、「インドの山奥で」の次の歌詞が、必ず「でんでんでん六豆、うま~い豆」になる特徴がある。


もはや言うまでもないと思うが、「でんでんでん六豆、うま~い豆」とは、株式会社でん六が発売する豆菓子、「でん六豆」のCM曲のフレーズである。
このことから、でん六豆は当時からすでに売られていた歴史あるお菓子であることが分かる。


そしてこの替え歌Cでは、その後のフレーズを、各種の童謡で歌い繋いで行く特徴があり、最後が「ぽっぽっぽ~、ハトぽっぽ~」で終わるものと、そこからもう少し、歌詞を繋いで行くものとに分かれる。
で、「ハトぽっぽ~」の後に、もう少し続くものの一例がこちらになる(↓)。


「替え歌 D」

インドの山奥(で)
でんでんでん六豆、うま~いま(め)
めーだーかーの学校は~、か~わ~の~な(か)
か~ら~す~、なぜ鳴くの~、からすはや~ま~(に)
にんにく食べたら屁が
ぽっぽっぽ~、ハトぽっぽ~
ま~めが欲しいかそらやる(ぞ)
ぞ~さん、ぞ~さん、お~はなが長いのね~
そ~よ母さんもな~がいのよ~


じつはここから更に続いて行くものもあるのだが、そのいずれもが、でん六豆の歌詞の後は、なぜか全て童謡で繋いで行っており、それがこの系統の特徴にもなっている。
そしてもう1つの特徴としては、替え歌AやBのように冒頭の歌詞へのループはしないという点だ。


そして替え歌CとDで一つ指摘しておきたいのは、「なぜ、にんにくを食べて屁が出るのか?」ということと、屁が出たのなら、「ぽっぽっぽ~」ではなくて、「ぷっぷっぷ~」ではないのかという点だ。


このようにこの部分に関しては、「かなり強引」としか言いようがないのだが、「でん六豆系統」の替え歌には必ず採用されている一節なので、当時の子供たちの間では、かなり重要視されていたワンフレーズということになるのだろう。
まあ、小学生は「おなら」とか「うんこ」が大好きだから、是が非でも残したいフレーズだったのだろう・・・・・・。


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さて、ここからは替え歌C、Dとは、また別系統の替え歌になる。
歌詞が短いものが多いので、いくつか続けてご紹介することにする。
それではどうぞ(↓)。


「替え歌 E」

インドの山奥(で)
出っ歯のハゲあた(ま)
まんじゅう食いたい(な)
菜っ葉のおみおつ(け)
けんかが止まらな(い)
インドの山奥で(冒頭へループして行く)


「替え歌 F」

インドの山奥(で)
出っ歯のハゲあた(ま)
ま〇こに毛が生え(た)
たぬきの立ち小便


「替え歌 G」

インドの山奥(で)
出っ歯のおじさん(が)
がいこつひろって死んじゃった


替え歌E~Gでは、「インドの山奥で」の次の歌詞が、必ず「出っ歯のハゲ頭(おじさん)」になるという特徴がある。
そしてこの系統は、歌詞が長続きせず、とにかく短くてあっという間に終わってしまうものが多いようだ。


また、今回調査したものに関しては、「出っ歯のハゲ頭(おじさん)」に続く次の歌詞が、「まんじゅう食いたいな」になるものと、「ま〇こに毛が生えた」になるものにきれいに分かれた。


「ま〇こに毛が生えた」に関しては、もう完全に下ネタで、当時こんなフレーズを小学生が学校で、大きな声で歌っていたのかと思うと、思わず「プッ!」と吹き出してしまう。
ま〇こに毛が生えたことを世間に公表して、いったいどうしようというのか。


また、なぜか歌詞は異常に短いが、「がいこつを拾ってどうにかなる」系もそこそこ見られた。


じつはこのレインボーマンの替え歌、全国の小学生の間でじつに20年近くの間、歌い継がれて来たらしい。
当然、元歌を知らないで歌っている世代の方が多かったと思われる。


という訳で、次回はなぜレインボーマンの替え歌が、そんなに長きに亘り、歌い継がれて来たのかについて調査して行きたいと思っている・・・・・・。


(画像上、道端でひっそり咲く、アレチヌスビトハギの花。画像下、フェンスに絡んで咲いていたガガイモの花)


«「謎フレーズ探偵」レインボーマンの替え歌 ①

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