カテゴリー「キノコ」の記事

2024年11月25日 (月)

牛乳に相談だ。「ラブレター篇」「ライオン篇」

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2005(平成17)年から2010(平成22)年頃にかけて、中央酪農会議が「牛乳に相談だ。」というテレビCMを放映していたことがあった。


その目的は若年層の牛乳離れを食い止めるための、牛乳の消費拡大キャンペーンだった。


で、個人的にこの「牛乳に相談だ。」のシリーズは、内容があまりにもバカバカしくツボだったので、ちょっとネタとして採り上げてみたいと思っている・・・・・・。


じつはこの「牛乳に相談だ。」のテレビCMはシリーズ化されていて、じつに10本以上の作品が放映されている。


というわけで、まずは「ラブレター篇」をご紹介してみたいと思う。


みなさんの記憶の1ページを紐解くことが出来たら幸いである・・・・・・。


「ラブレター篇」

場面は学校の教室で、お弁当の時間。


一目で牛乳をたくさん飲んでいることが分かる女子生徒がいる。


「すごい牛乳飲んでるね」と見たまんまの感想を伝える友達。


すると牛乳をたくさん飲んでいる女子生徒が、「きれいになんのよ」とひと言。


「きれいに・・・」と呟きながら妄想を始める友達・・・・・・。


場面は妄想のシーンに切り替わり、通学路でとある男子生徒から、「これ!」とラブレターらしきものを差し出される。


「わたし?」と言いながら、それを受け取る女子生徒。


とまあ、ここまではドラマでもよくありがちなストーリーだ・・・・・・。


そしてその後、学校の下駄箱までたどり着くと、自分の下駄箱のフタを何気なく「パカッ」と開ける女子生徒。


すると次の瞬間、下駄箱から大量の手紙が、まるで洪水のようにあふれ出て来て、手紙といっしょに流されていく女子生徒。


すると教室では、「ゆうこが溺れている!」と大騒ぎになっているのだが、どんなに大量の手紙が流れ出て来ても、溺れることなんてないと思う。


で、すでにお気づきかと思うが、ここでようやく、このCMの主人公の名前が、「ゆうこ」であることが判明する・・・・・・。


そしてクラスメートの話を聞いて、血相を変えて走って来たのは、先ほどゆうこにラブレターらしき手紙を渡していた男子生徒。


誤解のないように書いておくが、この男子生徒、べつにイケメンでもなんでもなく、潰れたまんじゅうに毛が生えたような、つまらない顔をしている。


「ゆーーこーー!」と叫びながら、いつの間にか海パン一丁になっていた「まんじゅう男」が、果敢にも手紙の濁流の中に、躊躇なく飛び込んで行く。


いうまでもない話だが、濁流とはいえ、流れ出て来ているのはあくまでも手紙である。


海パン一丁になる必要などないのだ。


そして、それに気付いたゆうこが、「じゅんくん!」と叫び、「まんじゅう男」の名前が、「じゅんくん」であることが、この時はじめて明かされる。


「大丈夫か!」とゆうこに追いつくじゅんくん。


すると「人工呼吸して!」と、溺れてもいないのに、血迷ったことを言い出すゆうこ。


どこかで頭でも打ったのだろうか・・・・・・。


場面は冒頭のシーンに戻り、たくさん牛乳を飲んでいた友達に、「飲まなきゃ!」と言いながら、キスをしようとしているゆうこ。


どうやらまだ、半分妄想から覚めていないようだ。


そして最後は2人でのけぞったポーズをとり、牛乳をグビグビ飲みながら、「ぎゅーにゅ~にそうだんだっ ♪」と歌ってCMは終了となる・・・・・・。


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「ライオン篇」

場面は学校の校舎の屋上で、2人の男子生徒が話をしている。


友達がものすごくたくさん牛乳を飲んでいて、「すごい牛乳好きだねぇ」と声をかける坊主頭の男子。


すると「強くなるからね」と友達。


「つよく~?」と妄想に入る坊主頭。


そしてここから妄想のシーンに切り替わる・・・・・・。


本を読みながら、ゆったりと歩いて来る女子生徒がいる。


すると女子生徒の背後から、ライオンがゆっくりと近づいて来る。


その直後、視聴者の予想通り、ライオンに襲われる女子生徒。


それを見た坊主頭の男子が、ライオンに飛びかかり、助けに入る。


そしてライオンと戦闘に入る坊主頭。


するとライオンもなぜか2本足で立ち上がり、ファイティングポーズをとってみせる。


そしてライオンと、パンチの応酬からの力比べが始まる。


もはやプロレスの試合である。


最後は男子生徒の必殺技、電気あんまを決めて見事勝利。


草葉の陰からその様子を見守っていた男子2人が、「すごく強いよ~」とひと言。


そして女子生徒をお姫様抱っこしながら、格好良く去って行く坊主頭。


「強くて好き」と女子生徒・・・・・・。


そして妄想から戻ると、屋上で牛乳をすごくたくさん飲んでいた友達を、お姫様抱っこしている坊主頭の姿が。


そして片手を立てたブリッジのポーズで、「飲まなきゃ!」と言いながら牛乳を飲む2人。


ちなみに牛乳はいまはなき瓶牛乳である。


そして最後は、「ぎゅ~にゅ~に、そーだんだっ ♪」でCMは終了となる・・・・・・。


(画像上、トウカエデが赤く染まり始めていた・・・・・・。画像下、晩秋に発生するキノコのナラタケがあちこちで見られた・・・・・・)


2024年9月 2日 (月)

「謎フレーズ探偵」ポチる

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「ポチる」という言葉がある。


もはや説明するまでもないと思うが、「ポチる」とは通販サイトなどで、商品の購入を確定することを意味している。


購入ボタンを「ポチッ」と押して買うから「ポチる」なのである。


しかし、実際には「ポチッ」としているのは、PCならマウスの方で、画面上の購入ボタンからは、当然のことながら、手に伝わって来る感触は何もない。


で、ここでちょっと疑問に感じることがある。


マウスならば「ポチッ」ではなく、「カチッ」ではないのか?


それなのになぜ、「ポチッ=ポチる」になったのだろうか・・・・・・。


じつはこの「ポチる」という言葉には、元になった言葉がある。


それは「ポチッとな」で、昔から様々なアニメやゲームの世界で、登場人物たちのセリフとして使われて来た。


そしてそれはほとんどの場合、何かしらのボタンを押すシーンで、「今からボタンを押しますよ」の合図として使われて来たのだ・・・・・・。


で、この「ポチッとな」には、さらなる元ネタがある。


そしてその元ネタは、1977(昭和52)年1月1日から、1979(昭和54)年1月27日まで、フジテレビ系列で放映されていた、アニメ「ヤッターマン」になる。


具体的にはヤッターマンの作中で、ドロンボー一味のボヤッキーが、ヤッターマンのメカを攻撃する際に、操縦席にある赤く丸いボタンを「ポチッとな」と言いながら押していたのが、全ての始まりだったのである。


そしてヤッターマンは人気の作品ということもあって、その後も何度も再放送を繰り返していた。


その結果、幅広い世代の人が知るアニメ作品となって、「ポチッとな」も世間に広く浸透していったのである・・・・・・。


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で、私が子供の頃は、日常生活の中でも、何かのボタンやスイッチを押す時に、ボヤッキーの「ポチッとな」をよく真似して使っていたものだ。


例えばテレビの電源ボタンやラジカセの再生スイッチ、扇風機の風量切り替えボタンや、バスの降車ボタンを押す時などがそうである・・・・・・。


ところでこのボヤッキーの「ポチッとな」というセリフだが、じつは当時ボヤッキーの声を担当されていた、声優の八奈見乗児さんのアドリブだったといわれている。


だからもしその時に、アドリブが却下されていたら、現代の「ポチる」という言葉は誕生していなかったのかも知れない・・・・・・。


ちなみにボヤッキーといえば、「ポチッとな」以外にも、「はぁ~い、全国の女子高生のみなしゃ~ん」や、「今週の山場~っ!」などの決まり文句があることで知られているが、これらも全てアドリブだったと言われている。


このため作品中盤あたりからは、ボヤッキーの台詞の部分に、あらかじめ余裕を持たせておき、アドリブを入れやすくしておいたのだそうだ・・・・・・。


ところで2008(平成20)年にヤッターマンのリメイク版が放送された際には、キャラクターグッズとして「ポチッとなボタン」と、その廉価版の「ポチッとなボタンミニ」が発売された。


これらのボタンは、アニメ本編のイメージを忠実に再現していて、赤いボタンにはドロンボー一味のトレードマークでもある、ドクロのマークもちゃんとプリントされていた。


そしてボタンを押すことで、「ポチッとな」を始めとする、様々な台詞をしゃべるおもちゃに仕上がっていた・・・・・・。


また、2010(平成22)年2月12日には、日本マクドナルドのハッピーセットのおまけとして、期間限定、数量限定で、「ポチッとな」が配布されていた。


こちらも前述のキャラクター商品に似たデザインで、ボタンを押すことで、ドロンボー一味の台詞が再生される仕組みになっていた。


台詞は3種類で、ドロンジョの「やぁ~っておしまい!」、ボヤッキーとトンズラーの「アラホラサッサー!」、そして最後はメインとなる、ボヤッキーの「ポチッとな」が収録されていた・・・・・・。


私が子供の頃、ヤッターマンの作中に登場するポチッとなボタンは、その大きさや形状、押し心地などが、なんとも絶妙に感じられ、テレビを見ながら、「あれをぜひ押してみたい」と思っている少年少女がたくさんいたものだ。


だから昭和のあの頃に「ポチッとなボタン」が商品化されていたら、きっと馬鹿売れしていたに違いない・・・・・・。


ところで「ポチッとな」といえば、ヤッターマンの作中で、ボヤッキーがボタンでないものを、「ポチッとな」と押していることがあった。


で、それは何かというと、ドロンジョの乳首で、ハプニングのどさくさに紛れて、「ポチッとな」と押していたのだが、その直後にドロンジョに張り倒されていたことはもはやいうまでもないだろう・・・・・・。


(画像上、暑い中にも秋を感じるようになり、フィールドではツクツクボウシの個体数が一気に増えた・・・・・・。画像下、シロソウメンタケも秋を感じて地上に姿を現した・・・・・・)



2024年8月27日 (火)

学校のジャージの色

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私は中学に進学した時に驚いたことがいくつかあった。


そのうちのひとつが、体育の授業で着る体操服に、ジャージが含まれていたことだ。


小学生の頃は体操着といえば、四季を通じて、男子は半そでに短パン、女子は半そでにブルマーだった。


このため真冬なんて、肌が露出している二の腕や太ももは、凍り付きそうなくらい冷たくなっていて、体育の授業が終わる頃には、もはや凍死寸前だった。


あまりの寒さにおしっこがしたくなり、授業終了と同時にトイレに走ると、ちんちんがいつもの半分ほどの大きさに縮こまっていて、目ん玉が飛び出るほど驚いたものである。


私はちんちんは伸びるものだと思っていたのだが、このとき初めて縮むこともあるということを、身をもって知ったのだった。


そして、もしこのままずっと寒いところにいたら、ちんちんは体内に取り込まれて、なくなってしまうんじゃないかという恐怖すら感じていた。


そしてそんな生活を6年間も続けて来たというのに、中学に入学した途端に、ジャージが準備されているって、これはいったいどういう了見なのだろう。


寒さが緩和されるのは大歓迎だったが、それだったら、もう少し早く準備して欲しかったものである・・・・・・。


ところでこの中学のジャージ、デザインは全くいっしょだったが、濃紺、エンジ、緑と3色あって、学年によって、それぞれ色が違っていた。


といっても、学年が上がるたびに色が変わる訳ではなくて、入学時に濃紺だった場合は、3年間、濃紺のジャージを着ることになるのだった。


そして3年生のジャージの色が、翌年の新1年生のジャージの色になるというループ式になっていた・・・・・・。


じつは私は当初このシステムを全く理解していなかった。


そして中学に入学して数ヶ月が経過したころになって、友達からたまたまその話を聞かされて、ようやくそのことを理解したのだった。


そしてこの時、偶然とはいえ、自分のジャージの色が。濃紺の年で本当によかったと、心の底からそう思っていた。


なぜかというと、じつは当時の私は、濃紺、エンジ、緑の3色だったら、「濃紺以外は考えられない」と思っていたからだ・・・・・・。


その反対に「緑だけは絶対に着たくない」とも思っていた。


いま考えると、なぜそこまで緑が嫌だったのか理解に苦しむのだが、当時の私はなぜか「緑は格好悪い」と思っていたのである。


例えるなら、大人になって、「君は上下とも緑色のスーツを着なさい」と言われたら、恐らく多くの人は躊躇(ちゅうちょ)すると思うのだが、それと同じような感覚だったのだと思う・・・・・・。


そして、もうひとつのエンジに関しては、緑ほどの拒絶反応はなかったものの、当時の私にとって、赤系の色というのは、女性の服のイメージが強くあって、「出来れば着たくないなぁ」と思っていた・・・・・・。


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ちなみにこのジャージの色は、いわゆる体操着の色にも対応していた。


体操着の色は上は男女ともに基本的に真っ白だったが、首や袖のゴムになっている部分に、ジャージと同じ色がライン状に入っていた。


また、私の記憶では体操着の下は、男子は学年に関係なく、白の短パンだったと思うが、女子はジャージの色と同じブルマーだった。


小学校では入学から卒業までの6年間、女子のブルマーは学年に関係なく、みんな濃紺だったので、中学入学当初は、これについてはどうも違和感があって、なかなか慣れなかったものである・・・・・・。


しかし、慣れて来ると、色によって、また違った印象に見えて、「意外といいものだなぁ」と思えるようになって来た。


で、何がそんなに「いいもの」なのかというと、濃紺など暗い色だと陰影がはっきりせず、フラットな感じに見えてしまうのだが、エンジや緑では明るい部分と、影になっている部分がはっきりとして、より立体的に美しく見えるようになるのである。


例えるなら、平べったい2Dのアニメキャラが、立体的な3Dのコンピューターグラフィックに進化したといったところだろうか。


言い方を変えるなら、ただののっぺりとしたお尻が、ピップアップエクササイズを積み重ねて仕上げて行った、丸くぷりっとした美尻に変身したのである・・・・・・。


で、面白いのは、この「魅力度」は、先程の私の「色の好み」とは、全くの真逆だったことである。


先ほども書いた通り、私の色の好みは、濃紺、エンジ、緑の順だった。


ところがここに中身であるお尻が入ることで、不思議なことにその魅力度は、緑、エンジ、濃紺へと変化するのだ・・・・・・。


で、この話を友人に話したところ、「それはただ単に、1年生よりも3年生の方が、身体の発育が進んでいるから、そう思えるだけなんじゃないのか?」と言われた。


違う!これだから素人は困るのだ。


1年生と3年生を比べても、何の意味もないのだ。


例えばそこに座っている舞子(仮名)が緑のブルマーを履いていると想像してみろ。


濃紺の時と全然印象が違うだろう?


・・・・・・と、いったような内容の話を、私は友人にとくとくと話して聞かせていた。


すると、突然「ガタン!」と音がして、舞子(仮名)がすくっと立ち上がり、こちらを振り返った。


そして、「わたしお姉ちゃんが3年生だから、ちょっと緑のブルマー借りて、履いてみようかな?」と言った。


そして少し間を置いてから、「あんたたちには見せないけどね!」と言うと、いたずらっぽくニヤリと笑った。


どうやら話は筒抜けだったようである・・・・・・。


(画像上、まるで雑草のように、どこからでも生えて来るタカサゴユリ・・・・・・。画像下、まだまだ、暑い日が続くが、秋を感じてキノコが地上に現れた・・・・・・)



2023年11月25日 (土)

「謎フレーズ探偵」たんたんたぬきの金玉は

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「た~んたん、た~ぬきの、き~んた~まは~、か~ぜもないのに、ぶ~らぶら~ ♪」という歌をご存じだろうか?


・・・と、一応そのように書いてはみたものの、恐らく「知らない」と答えるかたは、限りなくゼロに等しいと思う。


もし仮に、「日本でもっとも有名な、どうしようもない歌ランキング」というのがあったら、この歌はまず間違いなくベスト5には入っているだろうし、もっと言ってしまえば、個人的にはこの歌が1位なんじゃないかとも思っている。


この歌はそれぐらい日本全国の幅広い世代の人が知っている、「どうしようもない歌」なのである・・・・・・。


しかし、この手の歌というのは、ある一定の世代の人は知っていても、年配の人や若い人は知らなかったりするものだ。


また、自分たちが子供の頃に歌っていたものと、現在歌われているものでは、明らかに歌詞が変化してしまっているということもよくある。


ところがこの歌は、歌詞の前半部分に関しては、日本全国どこへ行っても、全く同じフレーズで歌われていて、しかも数十年間、その内容は全く変化していないのである。


音楽の教科書に載っているとか、テキストとして何らかの形で残されているのならともかく、人から人へ歌い継がれて行くだけという、なんとも原始的な方法で、よくぞここまで完璧に、代々継承されて来たものである・・・・・・。


ちなみに、「た~んたん、た~ぬきの、き~んた~まは~、か~ぜもないのに、ぶ~らぶら~ ♪」に続く後半の歌詞に関しては、私が子供の頃(昭和50~60年代)から、すでにいくつかのバリエーションが存在していた。


それをいまからいくつかご紹介してみたいと思う・・・・・・。


「たんたんたぬきの金玉は(A)」

た~んたん、た~ぬきの、き~んた~まは~
か~ぜもないのに、ぶ~らぶら~
そ~れをみ~ていた、お~やだぬき~
おなかをかかえて~、わっはっは


「たんたんたぬきの金玉は(B)」

た~んたん、た~ぬきの、き~んた~まは~
か~ぜもないのに、ぶ~らぶら~
そ~れをみ~ていた、お~やだ~ぬき~
か~たあし、あ~げて、ぶ~らぶら~


歌詞Aと歌詞Bは、子だぬきの金玉が、風もないのに、ぶらぶらと揺れている様子を親だぬきが見ていて、そのことを面白がっているという、親だぬき目線の歌である・・・・・・。


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「たんたんたぬきの金玉は(C)」

た~んたん、た~ぬきの、き~んた~まは~
か~ぜもないのに、ぶ~らぶら~
そ~れをみ~ていた、こ~だぬきも~
お~やのまねして~、ぶ~らぶら~


「たんたんたぬきの金玉は(D)」

た~んたん、た~ぬきの、き~んた~まは~
か~ぜもないのに、ぶ~らぶら~
そ~れをみ~ていた、こ~だぬきは~
ぼ~くもほしいと~、な~きだした~


歌詞Aと歌詞Bでは、子だぬきの金玉が、風もないのにぶらぶらと揺れている様子を、面白がって眺めている親だぬき目線の歌だったが、歌詞Cと歌詞Dでは、親だぬきの金玉が揺れているのを眺めている、子だぬき目線の歌になっている・・・・・・。


で、どちらが正しいとか、どれが元歌だったのかということに関しては、残念ながら正直よく分からないとしか言いようがない。


というのも、私が子供の頃には、すでに複数のバリエーションが存在していて、判断の付かない状態になってしまっていたからだ。


ただ、ひとついえることは、「たんたんたぬきの金玉は」という歌は、もはや言うまでもないと思うが「替え歌」である。


そしてその元になった歌や曲については、いまさら調べるまでもなく、すでにちゃんと判明しているのだ・・・・・・。


じつはこの歌のもとになった曲は、小学生が歌う唱歌で、「夏は来ぬ」というタイトルで知られている。


「国民唱歌集」という1891(明治24)年発行の本にも掲載されていることから、替え歌の方もそれなりに歴史があるものと思われる。


ちなみに「夏は来ぬ」というタイトルを見ても分かる通り、「たぬきの金玉」などいっさい何の関係もない歌であることは、もはや言うまでもない・・・・・・。


そしてややこしい話になって来るが、この「夏は来ぬ」には、さらに元歌が存在している。


じつはこの歌は、もともとは「Shall We Gather At The River」という聖歌だったのだ。


邦題は「まもなくかなたの」で、1864年にアメリカで発表された曲になる。


それにしても、聖歌が唱歌になったまではよかったが、そこからどこをどう間違えたら、「たぬきの金玉」に行き着くのだろう。


そうは言っても、日本では「たぬきの金玉の歌」が誕生していなければ、この曲がここまで有名になることなんてなかっただろう。


現代人は唱歌、「夏は来ぬ」を知らないのだから、そういう意味では、「たぬきの金玉の歌」は、じつはすごい歌で、この歌の作者(恐らくそこらへんにいる子供だったのだろうが・・・)は、偉大な功績を残したといえるだろう。


ただ、今となっては、それがどこのだれだったのか、皆目見当もつかないのである・・・・・・。


(画像上、気温が下がると花色が鮮やかになるスイフヨウの花。画像下、雑木林ではナラタケが爆生中・・・・・・)


2022年11月25日 (金)

「謎フレーズ探偵」ビビディ・バビディ・ブーの替え歌 ①

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「ビビディ・バビディ・ブーの替え歌 A」

やめてよして触らないで
垢がつくから
あんたなんか嫌いよ
顔も見たくない(フン)


この歌は昭和50~60年代、私が小中学生の頃に、子供たちの間でよく歌われていた歌で、きっとご存知のかたも少なくないだろう。


ビビディ・バビディ・ブーの軽快なメロディに乗せて、なんとも強烈な歌詞をサラリと歌い上げている。


この歌は主に女子が男子に向けて歌う歌で、男子にからかわれたり、ちょっかいを出されたりした時に、その対抗策として歌われていた。


冒頭でご紹介した歌詞が、最もオーソドックスなもので、私はこの歌詞Aがこの替え歌の元歌なのではないかと思っている。


と、そんな訳で、今回はこの「ビビディ・バビディ・ブーの替え歌」について、調査をして行きたいと思っている。


ちなみに今回は、主に女子が歌っていた歌ということで、以前ゴム飛び歌の調査の時に協力していただいた、女性のみなさんに声を掛けて、それぞれの友人、知人などから、情報を集めてもらって来た・・・・・・。


で、まずは冒頭でご紹介した歌詞Aについて、ちょっと補足をしておこうと思う。


歌詞Aでは「やめてよして触らないで垢がつくから」と歌われているのだが、この「垢がつくから」という部分を、「垢がつくでしょ」と覚えていたかたがけっこういた。


しかし、違っているのはこの部分だけなので、「どちらかが間違えて覚えているのでは?」と思われるかもしれない。


ところがじつはそうでもなさそなのだ。


子供の頃に流行っていたこの手の歌というのは、どうしようもなく、くだらない歌詞のものが多いのだが、なぜか鮮明に覚えているかたが、意外と多いのだ。


そして「自分が子供の頃に歌っていたのは絶対にこの歌詞だった」と強く主張されるのである。


そんな訳で歌詞Aには、「垢がつくから」と「垢がつくでしょ」の2つのパターンがあったことを、とりあえずご報告しておく・・・・・・。


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「ビビディ・バビディ・ブーの替え歌 B」

やめてよして触らないで
近づかないでよ
あんたなんか嫌いよ
顔も見たくない(フン)


どうでもいいけど、「ひでぇ歌だなぁ」と思う。


歌詞Aでは「垢がつくから触らないで」と言われていたのに、歌詞Bでは近づくことすら許してもらえない様子。


そこまで嫌われているとは、この男子生徒は過去にいったい何をしたというのだろう。


私が小学生の頃、馬鹿な男子がいて、鼻くそを丸めて指でピッと弾いている所を、屈強な女子に見つかって、往復びんたを喰らっていたことがあったが、恐らくそんなところだろうか・・・・・・。


「ビビディ・バビディ・ブーの替え歌 C」

やめてよして触らないで
子供出来ちゃう
あんたなんか嫌いよ
顔も見たくない(フン)


私はこの歌詞はあまり記憶にないのだが、歌詞Cはその内容からして、中学生の頃に流行っていたバリエーションだろうか。


小学生が「子供が出来ちゃうから触らないで」などとは言わないだろう。


まあ、中学生ともなれば、触られたぐらいで、子供など出来る訳がないということは、ちゃんと理解しているはずである。


ということは、この歌詞には、「もっと絡んで来んかいっ!」という、逆説的な意味合いが込められているのかもしれない。


絡まれる相手にもよるのだろうが・・・・・・。


という訳で、今回は「ビビディ・バビディ・ブーの替え歌」のオーソドックスな歌詞のものを3つご紹介してみたのだがいかがだったろうか。


恐らく多くのかたの記憶に残る「ビビディ・バビディ・ブーの替え歌」は、この基本の構成の歌詞だと思う。


ところが「ビビディ・バビディ・ブーの替え歌」は、ここから基本の構成を少しずつ崩しながら、歌詞が大きく変化して行くことになる。


そして最終的には、もともとの替え歌の趣旨が分からないほどまでに変化してしまう。


で、次回からは、その変化して行く歌詞を追いかけてみようと思っている・・・・・・。


(画像上、ノコンギクは里山で最も普通に見られるノギクの仲間だ。画像下、林縁や雑木林ではナラタケが爆生中・・・・・・)

2022年10月 2日 (日)

「謎フレーズ探偵」アルプス一万尺の替え歌 ②

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「アルプス一万尺(元歌)」

アルプス一万尺
小槍の上で
アルペン踊りを踊りましょ
ラーララ ラララララ
ラーララ ララララ
ラーララ ラララララ
ララララ ラー


一般にアルプス一万尺は、子供が2人1組で行う手遊び歌として知られている。


私が子供の頃、女の子はよくこのアルプス一万尺をやって遊んでいた。


基本的にアルプス一万尺は女子の遊びで、男子がやっているのを見かけたことは、確か一度もなかったと思う。


その代わりと言ってはなんだが、男子の間では「アルプス一万尺の替え歌」が流行っていた。


男子は女子がアルプス一万尺をやっているのを見つけると、わざわざその近くまで走って行って、「アルプス一万尺の替え歌」を歌って、ゲラゲラと笑っていたものだ。


その歌詞の内容があまりにもバカバカしいので、アルプス一万尺で遊んでいた女子も、思わず「プッ!」と吹き出して、いっしょに爆笑していたのを覚えている・・・・・・。


で、今回はその替え歌をいくつかご紹介してみたいと思っている。


例によって今回もいつものメンバーに協力してもらい、それぞれの友人知人のネットワークから情報を集めてもらった。


ちなみに本稿では昭和50~60年代に小学生時代を過ごした人たちから話を聞かせてもらっている。


そんな訳でまずは私が覚えていた歌詞のものを最初にご紹介してみたい。
それがこちらになる(↓)。


「アルプス一万尺の替え歌 A」

田舎のじっちゃんばっちゃん
イモ食って屁して
大事なパンツに穴開けた(ヘイ!)


そしてこの後は、後半の歌詞に続いて行くのだが、今回は前半の歌詞だけをご紹介して行く。


ちなみに元歌の方は、後半の歌詞は、「ラーララ ラララララ・・・」と、「ラ」でシンプルに歌って行くだけなのだが、替え歌の方は一応ちゃんと歌詞がある。


これについては、次回以降で詳しくご紹介して行こうと思っている・・・・・・。


「アルプス一万尺の替え歌 B」

田舎のじっちゃんばっちゃん
イモ食って屁こいて
パンツが破れて空飛んだ(ヘイ!)


歌詞Aと歌詞Bはよく似ているのだが、注目すべきは最後の部分だ。


歌詞Aでは「大事なパンツに穴開けた」だけで済んでいるが、歌詞Bではパンツが破れただけに止まらず、なんと屁のパワーだけで空を飛んだというから驚きである。


田舎のじっちゃんばっちゃんとはいえ、なかなか侮れない特技を持っているといえよう。


それにしても屁をするたびに、パンツに穴が開いたり、破けたりしていたら、パンツが何枚あっても足りないだろう。


ということは、普段はパンツを一度下ろしてから、屁をしているのかもしれない。


ところがこの日はうかつにもイモを大量に食べてしまったため、不意に屁が出てしまい、パンツに穴を開けてしまったということではないだろうか。


ちなみに上の歌詞の()内のフレーズは、歌わないバージョンもあったという意味である・・・・・・。


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「アルプス一万尺の替え歌 C」

隣のじっちゃんばっちゃん
イモ食って屁して
パンツが破れてさあ大変(ヘイ!)


「アルプス一万尺の替え歌 D」

隣のじっちゃんばっちゃん
イモ食って屁こいて
パンツが破けて気絶した(ヘイ!)


歌詞Cと歌詞Dを見てまず気付くのは、冒頭の歌詞が「田舎のじっちゃんばっちゃん」から、「隣のじっちゃんばっちゃん」に変化していることだ。


じつは今回の調査で出て来たものに関しては、同じ歌詞のものでも、冒頭の歌詞が「田舎のじっちゃんばっちゃん」になっているものと、「隣のじっちゃんばっちゃん」になっているものの2パターンがあった(人によって違っていた)。


したがって、本稿でご紹介する際には、どちらか多かった方の歌詞を採用している・・・・・・。


「アルプス一万尺の替え歌 E」

田舎のじっちゃんばっちゃん
イモ食って屁こいて
パンツが破れてケツ出した(ヘイ!)


どうでもいいが、パンツが破れてケツが出るのは当たり前の話である。


どうせケツを出すのなら、パンツが破けないように、屁をする前に出さなければ意味がないだろう。


「パンツが破れてケツ出した(ヘイ!)」などと言っている場合ではない・・・・・・。


「アルプス一万尺の替え歌 F」

田舎のじっちゃんばっちゃん
イモ食って屁こいて
パンツを脱いだらクソだらけ(ヘイ!)


この歌詞Fではうかつにも屁ではなく、具の方が出ちゃったらしい。
肛門のしまりが悪くなっているのだろうか。


しかし、「パンツが破けた」という記述はどこにもないので、とりあえず今回はパンツそのものは無事だったようである・・・・・・。


という訳で、今回は「アルプス一万尺の替え歌」の前半の歌詞をご紹介して来たのだがいかがだったろうか。


じつはこれが全てではないのだが、切りがないのでとりあえず今回は、この辺で線引きしておこうと思う。


そして次回は、今回あえてご紹介しなかった、後半の歌詞について書いてみたいと思っている・・・・・・。


(画像上、道端で咲く、白花の彼岸花。画像下、テングタケの幼菌。林縁ではキノコが目立つ・・・・・・)


2022年9月14日 (水)

のっぺらぼう

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先日、会社の近くのスーパーへ買い物へ行こうと、いつも通る道をエコバックを片手に歩いていたところ、50mほど前方に気になる人物を発見した。


私はのどが渇いていたので、その場に立ち止まり、ペットボトルのお茶をグビグビと飲みながら、その人物をぼんやりと眺めていた。


ところが不思議なことに、その人物はこちらに向かって歩いて来ているはずなのに、なぜか一向に近付いて来る気配がないのだ。


これはいったいどうしたことだろう。


と、そんなことを考えていたら、私はふとあることに気付いた。


「あれ、顔がない?」


前述の通り、その人物とは50mほど離れていたので、はっきりとは見えないが、どうもその人物には顔がないように見えるのだ。


正確にいうなら、頭部はちゃんとあるのに、目や鼻や口が見当たらないのである。


とは言うものの、そんなバカなことがあるはずがない。


私は何度も目を擦りながら、目玉が飛び出さんばかりに目を見開いて、その人物をじっと凝視した。


しかし、どんなにじっくり見たところで、その人物に目や鼻や口があるようには見えなかった。


もしかして、顔のないお面やマスクを被っているのではないかとも思ったのだが、そんな何も描かれていないお面やマスクに需要があるとはとても思えない。


仮にそんなお面やマスクがあったとしても、そんなものを被って外出しようなんてやつはいまい。


では、こいつはいったい何者なのか。


で、いろいろと考えた挙句に、私は1つの結論にたどり着いた。


「もしかして、これってのっぺらぼう・・・・・・?」


のっぺらぼうとは言うまでもなく、顔がツルツルで、目や鼻や口が何もない妖怪である。


私はのっぺらぼうなんて、漫画やアニメの世界の話だと思っていた。


だからまさか自分が現実に遭遇することになるなんて、これっぽっちも思ってもみなかった。


しかし、後日この話を人に話したとしても、絶対に信用してもらえないだろう。


人に信用してもらうためには、私以外にも目撃者が必要なのだ・・・・・・。


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そこで私は同行者の里帆さんに、「あれ、のっぺらぼうだよね?」と聞いてみることにした。


すると私の指を指す方向を怪訝な表情で「え?」と覗き込んだ彼女は、「のっぺらぼう?何を言ってるんですか?」と聞き返して来た。


もしかして彼女にはのっぺらぼうの姿が見えていないのかと思い、そのことをすぐに確認すると、ちゃんと見えているという。


そこで「顔がないのに変だとは思わないのか?」と問い質すと、「顔なんてある訳ないじゃないですか、後ろ向きなんだから」と言うではないか。


「え?」と言ったまま、あっけにとられている私に、里帆さんは「あれ、ハゲたおじさんですよ」と言った。


「いくらハゲたおじさんだって、顔がない訳がないだろう」というと、彼女は「だから後ろ向きなんですって。向こう側に歩いて行ってるんですよ」と言うではないか。


私はてっきりこちら側に歩いて来ていると思っていたのだが、のっぺらぼうは向こうに歩いて行っていたということらしい。


確かに後ろ向きになっているのなら、顔なんてあるはずがない。


しかも、ツルツル坊主のハゲ頭で、後頭部にも髪の毛がなかったため、のっぺらぼうのように見えていたということらしい。


しかし、私にはそのことがどうも納得がいかなかった。


なぜならあの時ののっぺらぼうは、確かにこちら側に向かって、歩いて来ているように見えたからだ。


ところがそのことを里帆さんに話して、「こちら側に向かって来ているのではなく、向こう側に歩いて行っているんですよ」と言われた途端に、のっぺらぼうの進行方向が変わったのだ。


しかも不思議なのは、回れ右をした様子がまるでなかったことである。


そしてあんなにゆっくりと歩いていたのっぺらぼうが、進行方向が変わった途端に、急に人が変わったように歩く速度を上げたのだ。


そしてあっという間に、十字路を右に曲がって姿が見えなくなってしまった。


里帆さんは私がハゲたおじさんのことを、のっぺらぼうだと言っていたことが相当面白かったらしく、私の横で腹を抱えて大爆笑していた。


笑い過ぎて瀕死のゴキブリのようになっている彼女を引っ張って、私は大急ぎでのっぺらぼうが姿を消した十字路まで行ってみた。


ところがこの先は急な長い上り坂であるにも関わらず、のっぺらぼうの姿はすでにどこにも見当たらなかったのである。


これはどう考えてもおかしい。


そこで私は里帆さんに、「ほら、見てみなよ。やっぱりおかしいよ」と声を掛けた。


すると彼女は再び笑いのツボに入ったらしく、腹を抱えて笑い始めたのだった・・・・・・。


(画像上、フィールドでは夏の終わりを告げるセミ、ツクツクボウシが急に増えた。画像下、雨が降ってシロソウメンタケが地上に現れた・・・・・・)


2021年7月21日 (水)

「ドラえもん」のび助とノビスケ

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▲のび太のパパこと、「野比のび助」にはいくつかの謎がある。そしてその謎は、ドラえもんの秘密道具を駆使しても、きっと分からないだろう・・・・・・。

皆さんはのび太くんのパパの本名をご存知だろうか。


作中ではのび太やドラえもんからは「パパ」と呼ばれているし、のび太のママからも名前で呼ばれることはなく、「パパ」か「あなた」と呼ばれている。


では、のび太のパパに本名の設定はないのかというと、決してそんなことはなくて、本名は「野比のび助」という。


きっと、初めて聞いたという人も少なくないだろう。


そんな訳で、今回はのび太のパパこと、「野比のび助」について、色々と書いてみたいと思っている。


で、毎度のことながら、本稿では原作者やアニメの制作サイドの事情にはいっさい踏み込まない。


つまり原作漫画の絵やアニメの映像が、全て現実の事柄であると仮定して話を進めて行くことを先にお断りしておく・・・・・・。


ところで、のび太のパパこと野比のび助には、ちょっとした疑問というか謎がある。


それは彼の名前についてなのだが、のび助というのは本当に彼の本名なのだろうか。


というのも、原作漫画の第2巻の「地下鉄を作っちゃえ」というエピソードで、のび太とドラえもんは、パパに「野比のび三」という名前の書かれた定期券を手渡している。


じつはこのシーン、テレビアニメの「大山版ドラえもん」の頃にも、原作に忠実に「野比のび三」と書かれた定期券をパパに手渡すシーンが、しっかりと放映されている。


それにしても子供が実の父親の名前を間違えるなんてことがはたしてあるだろうか。


もしかしたら、のび太のパパは、「野比のび三」が本当の名前なのではないのか。


と、そんなことを思ったりもしたのだが、原作漫画は版が重ねられ、このシーンは現在では、「野比のび助」にしれ~っと修正されてしまっている。


結果的に不可解だった謎が、知らないうちに闇に葬られていたことになる訳だ・・・・・・。


じつはこの、「野比のび助」という名前にはもう1つ謎がある。


のび太は将来しずかちゃんと結婚して、子供が産まれるのだが、その子の名前もなぜかのび太のパパと同じ「ノビスケ」なのだ。


常識的に考えたら、自分の子供に自分の父親と同じ名前を付けようなんて考える人はまずいないだろう。


のび太はなぜそんなことをしたのだろう。


そして、しずかちゃんもなぜそれを止めようとはしなかったのだろうか。


ちょっと考えてみて欲しい。


自分の息子に、自分の父親と同じ名前を付けたりしたら、息子の名前を呼ぶ時はもちろん、叱ったりする時にも、常に父親のことが脳裏に浮かぶはずである。


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▲林床で「ドラえもん」を発見!体型はよく似ているが、これはヤマドリタケモドキというキノコだった・・・・・・。

それでも親と別に住んでいるのならまだいい。


問題は親と同居をしていたり、実家に遊びに行ったりした時である。


父親と同じ名前の息子を、大きな声で堂々と呼んだり、叱ったりすることは、どう考えても気まずいだろう。


そしてそれをするのがのび太ならまだいいが、しずかちゃんだったら、きっとかなり肩身の狭い思いをするに違いない。


そしてそうなることは、初めから分かっていたはずなのに、なぜのび太はそれを強行したりしたのだろう。


そう考えると、あの定期券に書かれていた、「野比のび三」という名前が、どうも引っ掛かるのである・・・・・・。


原作漫画ではのび太のパパこと野比のび助は、36歳という設定になっている。


年齢だけに注目すると、「意外と若いな」と思われるかもしれないが、じつはのび太のパパは戦争経験者であることを忘れてはならない。


だから連載初期の頃は、のび太のパパは、家にいる時はほとんど和服姿なのである。


原作漫画では36歳とされている年齢だが、アニメの方では41歳であることが読み取れるエピソードがある。


じつは原作漫画とアニメでは、のび太のパパに限らず、キャラクターの設定が微妙に違う部分が見られる。


例えば原作漫画ののび太は小学4年生だが、アニメ版ののび太は小学5年生だ。


この設定に従うなら、のび太のパパは原作漫画で36歳なのだから、アニメ版では37歳でなければおかしい。


では、どうしてのび太のパパだけ、一気に5歳も年を取ってしまったのか。


じつは原作漫画では、のび太のママは38歳ということになっており、のび太のパパより2つ年上の姉さん女房なのだ。


もしかしたら、アニメ版では理由は分からないが、この設定を変えたかったのではないだろうか。


41歳ならばママよりも3つ年上ということになり、「ちょうどいい年齢差の夫婦」という判断なのかもしれない・・・・・・。


しかし、「こういう現実的な話は面白くないよな~」ということで、無理やり夢のある方向へ話を持って行くことにする。


したがって、これから書くことは、「真実ではない私の妄想のようなもの」と思っていただきたい。


そもそも原作漫画のドラえもんと、アニメ版のドラえもんは、登場人物も物語の舞台も全くいっしょである。


しかし、細かい設定を1つ1つクローズアップして見て行くと、前述のエピソード以外にも、所々が微妙に違っていたりする。


どちらの世界も現実に存在していて、そのどちらにも「自分」がいるし、「家族」や「仲間」もいる。


すなわち自分がいる世界と、そっくりな世界が、もう1つ存在しているのだが、目に見えない部分が微妙に違っている。


そして2つの世界は、常に平行線を保っており、決して交わることはない。


と、このような構図になる。


よく考えてみると、これって並行世界、パラレルワールドなのではないだろうか。


そして、この考え方を用いると、原作漫画とアニメの間で起きている数多くの矛盾点が、きれいさっぱり解消されることにもなる。


どうだろうか、ちょっとは夢のある話になっただろうか。


で、このパラレルワールドの考え方は、タイムマシンを語る上でも深く関連して来るので、いずれまた詳しく書いてみたいと思っている・・・・・・。


2021年7月15日 (木)

「謎フレーズ探偵」ガッチャマンの替え歌③

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前々回から、私が子供の頃に流行っていた、「ガッチャマンの替え歌」の調査を始めた。


そして前回の調査では、ガッチャマンの替え歌は、東日本と西日本で主人公が違っていたことが判明した。
今回はその続きである。


という訳で、内容を忘れてしまっているといけないので、まずは「ガッチャマンの元歌」、「東日本の替え歌」、「西日本の替え歌」を先におさらいしておこうと思う。


「ガッチャマンの元歌」

誰だ誰だ誰だ、空のかなたに踊る影
白い翼のガッチャマン
命をかけて飛び出せば
科学忍法火の鳥だ
飛べ飛べ飛べガッチャマン
行け行け行けガッチャマン
地球は一つ、地球は一つ
おお、ガッチャマン、ガッチャマン


「東日本の替え歌(オーソドックスなもの)」

誰だ誰だ誰だ、僕のおやつを盗むやつ
黒いお目々のパンダちゃん
命をかけて飛び出せば
電信柱にぶつかって
飛べ飛べないパンダちゃん
行け行けないパンダちゃん
地球は一つ、割れれば二つ
おお、パンダちゃん、パンダちゃん


「西日本の替え歌(オーソドックスなもの)」

誰だ誰だ誰だ、僕のおやつを盗むやつ
白い翼のニワトリ
命をかけて飛び出せば
科学忍法焼き鳥だ
飛べ飛べないニワトリ
行け行けないニワトリ
地球は一つ、割れたら二つ
おお、ニワトリ、ニワトリ


ざっと目を通してもらえば分かる通り、東日本の替え歌も、西日本の替え歌も、歌詞の内容そのものは、ほとんどいっしょと言っていいと思う。


それなのになぜか、東日本の替え歌の主人公は「パンダちゃん」、西日本の替え歌の主人公は「ニワトリ」になっている。


これはいったいどういうことなのだろう・・・・・・。


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ガッチャマンのテレビアニメは、フジテレビ系列で1972年10月1日より、毎週日曜日午後6時から午後6時30分の放送枠で放映が始まった。


そして、1974年9月29日の放映終了までに、全105話が放送されている。


じつはガッチャマンのテレビアニメの放映が始まった1972年は、日中国交正常化を記念して、中国から日本にパンダが初めて贈られた年でもある。


昭和生まれの人なら、カンカンとランランと言えば、思い出していただけるかと思う。


カンカンとランランは、1972年10月28日に、中国から専用機に乗せられて、羽田空港へ到着している。


そして驚いてしまうのは、この時、当時の内閣官房長官の二階堂進さんが、わざわざ羽田空港まで出向いて、カンカンとランランを出迎えているのだ。


当時、パンダは正にVIP級の待遇だったと言えるだろう。


そしてこのことは、当日のニュースや翌日の新聞でも大きく報じられたそうだ。


その後、カンカンとランランは東京の上野動物園で、同年の11月5日から一般公開された。


当時のパンダフィーバーは凄まじく、パンダを見るためだけに2時間待ちの行列に並び、ようやく順番が回って来たと思ったら、立ち止まることも許されず、観覧時間はたったの30秒という有り様だった。


しかも、その30秒の間、パンダが起きて動き回っているという保証は何もなく、せっかく見に行ったのに、パンダは2頭とも寝ていて、全く動かなかったなんて話も当時はよく聞かされたものである。


ちなみに私も幼い頃に、上野動物園にパンダを見に行った記憶がある。


私が見に行った時は、すでにパンダ来日から5~6年が経過していたと思うのだが、それでもパンダ舎の前は大行列で、やはり立ち止まることは許されず、ゆっくり見ている暇はなかったと記憶している。


そして前評判通り、パンダは2頭とも寝ていて、しかもこちらに尻を向けていたため、寝顔すら見られなかったのを、なんとな~く覚えている。


帰宅後、どっと疲れが出たことは言うまでもない・・・・・・。


ガッチャマンの放映が始まったのが1972年10月1日。


日本にパンダが初めてやって来たのが1972年10月28日。


そして、カンカンとランランを飼育展示していたのが、東京都恩賜上野動物園。


もう、お気付きだろう。


そう、この3つのキーワードを合わせると、当時東日本の小学生の間で流行っていた、ガッチャマンの替え歌の背景が見えて来るのだ。


どうやら、東日本の替え歌の主人公が「パンダちゃん」だったのは、当時のパンダフィーバーが関係していたようである。


そして、その当時は、西日本の動物園には、パンダはいなかったので、「どーせ、西日本の動物園にはパンダはいませんよ~だ!」と、自虐的な意味合いを込めて、西日本の各地域では、主人公をどこにでもいる、身近なニワトリに置き換えて歌っていたのではないだろうか。


また、ガッチャマンの主人公、「大鷲の健」の白いコスチュームは、どうひいき目に見てもオオワシには見えない。


オオワシは白というよりも、全体に黒っぽい鳥なのだ。


小学生はオオワシなんて言われてもピンと来ないし、校庭の鳥小屋にいるニワトリの方が身近で、イメージしやすかったのだろう。


そして、昭和の当時、小学校の校庭で飼われていたニワトリは、白いボディで大型の、「白色レグホン種」が多かったのも、その一因になっていたと思われる。


ガッチャマンの放映スタートと、パンダ来日の時期が一致していることからも、これでほぼ間違いないと思われる・・・・・・。


(画像上、日陰のアジサイはまだまだ元気。画像下、まとまった雨の日が続いて、テングタケが次々と顔を出す)

2021年7月 9日 (金)

「謎フレーズ探偵」ガッチャマンの替え歌②

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前回から私が小学生の頃に流行っていた、「ガッチャマンの替え歌」の調査を始めた。


今回はその続きである。


そこでまずは、ガッチャマンの主題歌(元歌)について、ちょっとおさらいをしておこうと思う。


「ガッチャマンの歌」

誰だ誰だ誰だ、空のかなたに踊る影
白い翼のガッチャマン
命をかけて飛び出せば
科学忍法火の鳥だ
飛べ飛べ飛べガッチャマン
行け行け行けガッチャマン
地球は一つ、地球は一つ
おお、ガッチャマン、ガッチャマン


どうだろうか。
昭和生まれの人なら、頭の片隅に眠っていた記憶が、これで呼び覚まされたのではないだろうか。


そして、前回の記事の内容についても、思い出していただけたろうか・・・・・・。


という訳で、ここからは前回の続き、「ガッチャマンの替え歌」に話を戻したいと思う。


前回は「食べ物編」と「便所編」の2つのジャンルをご紹介した。


そして今回1発目にご紹介するのは「パンツ編」である。
それではどうぞ(↓)。


「替え歌 D」

誰だ誰だ誰だ、僕のパンツを盗むやつ
黒いお目々のパンダちゃん
命をかけて飛び出せば
電信柱にぶつかって
飛べ飛べないパンダちゃん
行け行けないパンダちゃん
地球は一つ、割れたら二つ
おお、パンダちゃん、パンダちゃん


「パンツ編」の替え歌はもう一つあるので、続けてご紹介することにする。


「替え歌 E」

誰だ誰だ誰だ、僕のパンツを脱がすやつ
白いお手々のパンダちゃん
命をかけて飛び出せば
電信柱に激突だ
飛べ飛べないパンダちゃん
行け行けないパンダちゃん
地球は一つ、割れたらおけつ
おお、パンダちゃん、パンダちゃん


「パンツ編」の替え歌を2本続けてご紹介してみたのだがいかがだったろうか。


歌詞を見れば分かる通り、前回ご紹介した「便所編」にも増して、パンダちゃんがより一層、「やべえやつ」になっていることが分かる。


注目すべきは「替え歌D」では「僕のパンツを盗むやつ」、「替え歌E」では「僕のパンツを脱がすやつ」とあるように、パンダちゃんのターゲットはいずれも「僕」なのである。


これが「私」ならばまだ分からなくもないが、なぜに「僕」なのか。


私たちは「ガッチャマン」という先入観から、パンダちゃんはてっきりオスだと思い込んでいたが、これはもしかしたらパンダちゃんは、メスなのではないだろうか。


(いや、そういう問題ではないと思う・・・・・・。)


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さて、パンダちゃんがオスかメスかはさておき、ここまでの「替え歌A~E」では、「パンダちゃんが主人公である」ということは、もはや言うまでもないだろう。


そしてこれまでご紹介して来た替え歌は、全て関東地方で流行っていたものである。


ところがこのガッチャマンの替え歌、関西地方では、なんと主人公はパンダちゃんではないのである。


では、「いったい主人公は何者なのか?」の答えがこちらになる(↓)。


「替え歌 F」

誰だ誰だ誰だ、ぼくのおやつを盗むやつ
白い翼のニワトリ
命をかけて飛び出せば
科学忍法焼き鳥だ
飛べ飛べないニワトリ
行け行けないニワトリ
地球は一つ、割れたら二つ
おお、ニワトリ、ニワトリ


なんとガッチャマンの替え歌、関西地方では主人公はパンダちゃんではなく、ニワトリだったのだ。


「なぜ、ニワトリ?」という気がしないでもないが、それを言うならパンダちゃんだって、「なぜ、パンダちゃんなのか?」ということになるだろう。


それによくよく考えてみたら、科学忍者隊ガッチャマンは、鳥のコスチュームを身に着けており、イメージとしてはパンダちゃんより、ニワトリの方がしっくり来るのだ。


特にリーダーの「大鷲の健」は白いコスチュームで、イメージとしては大鷲というよりは、むしろニワトリの方が近いかもしれない。


更にニワトリの種類まで言及するならば、個人的には「白色レグホン」を押したいと思う。


間違っても「チャボ」のような小さな可愛らしい種類をイメージしてはいけない。


大型でガッチリとした「白色レグホン」こそが、ガッチャマンのイメージにピッタリのニワトリなのだ。


それに全体の歌詞を見ても、パンダちゃんよりも、ニワトリの方がしっくり来るのが分かると思う。


ただ、「科学忍法焼き鳥だ」の部分だけは、ちょっと気になるところではある。


いったいどんな「科学忍法」なのかと、つっこまずにはいられない。


で、この西日本バージョンのニワトリの歌詞のものも、先にご紹介している東日本のパンダちゃんと同様に、歌詞には様々なバリエーションがあるようである・・・・・・。


私は小学生の頃、ガッチャマンの替え歌は、自分の周りで流行っているだけで、きっと同級生の誰かが作った替え歌なのだろうと、勝手にそう思い込んでいた。


ところが、大人になってから、こうしていろんな人に話を聞いてみると、どうやらこの替え歌は、全国的に流行っていた替え歌だったらしいという、衝撃的事実が判明した。


こんなバカバカしい替え歌が、全国区だったということも驚きだが、東と西で歌詞(主人公)が違っていたということもどうも気になる。


という訳で、次回はいよいよ大詰め、ガッチャマンの替え歌の裏に隠れる、背景について迫って行きたいと思っている。


どうでもいいが、こんなバカバカしい内容の替え歌について、3回も書くことになろうとは思っても見なかった・・・・・・。


(画像上、アジサイにはやっぱり雨がよく似合う。画像下、頭に泥をくっつけてツルタケが地上に姿を現した)




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