カテゴリー「野鳥」の記事

2023年7月 5日 (水)

「謎フレーズ探偵」サル、ゴリラ、チンパンジーの歌 ①

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「サル~、ゴリラ、チンパンジ~ ♪」という歌をご存じだろうか。


きっと「子供の頃によく歌っていたよ」というかたも少なくないと思う。


この歌は特に流行っていたという訳ではないのだが、何かの拍子にそのメロディがふと頭に浮かんで、なんとなく歌っていることが多かったように思う。


当時は誰でも知っている有名な歌だったのだが、その一方で人から、「これってなんの歌だっけ?」と聞かれると、誰も答えられなかったりする、出所不明の謎の歌でもあった。


確か私の記憶では運動会の時に、この曲がスピーカーから流れていたと思うのだが、その時は楽器の演奏だけで、歌詞は特になかったと思う。


ということは、私のその記憶が正しければ、この曲は「そもそも歌詞なんてなかった」ということになるのではないか。


それではなぜ、子供たちの間で、「サル~、ゴリラ、チンパンジ~ ♪」などという歌詞が付けられて、歌われることになったのだろうか。


そのことを調べるためには、まずこの曲のルーツを探って行かなくてはならないだろう・・・・・・。


で、調べてみると、「サル~、ゴリラ、チンパンジ~ ♪」の歌のルーツ(大元)は、1914年にイギリス軍楽隊の、ケネス・ジョセフ・アルフォードが作曲した行進曲、「ボギー大佐マーチ」だったようだ。


「ボギー大佐マーチ」は軍の行進曲なので、当然歌詞はなくて、楽器による演奏のみである。


それにもし仮に、歌詞があったとしても、軍の行進曲に、「サル~、ゴリラ、チンパンジ~ ♪」などという、意味不明のバカバカしい歌詞を付ける訳がない。


そしてそもそもの話、「サル~、ゴリラ、チンパンジ~ ♪」の歌が日本で歌われ始めたのは、もっとずっと後の時代のことであり、どうやらこの歌と「ボギー大佐マーチ」は、直接的な関係はなかったようだ。


じつは今回のテーマは、その背景がちょっと複雑で、元歌にたどり着いたから、それで全て解決とはならないのである・・・・・・。


じつはこの「ボギー大佐マーチ」は、1957年に公開された映画「戦場にかける橋」で、マルコム・アーノルドが「クワイ河マーチ」というタイトルに編曲して、このタイミングで世界的に有名になっている。


ちなみに「クワイ河マーチ」にはちゃんと歌詞があって、ミッチ・ミラーとその合唱団による歌唱が付けられている。


しかし、この映画は戦争映画で、子供が見るような内容ではないし、仮に見たとしても、全然面白くないだろう。


ということは「クワイ河マーチ」も、「サル~、ゴリラ、チンパンジ~ ♪」の歌とは、直接的な関係はなかったものと思われる。


では、子供たちはいったいどこで、「サル~、ゴリラ、チンパンジ~ ♪」の元となる曲に遭遇していたのだろうか・・・・・・。


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じつはこの曲、日本では「ボギー大佐マーチ」でも、「クワイ河マーチ」でもなく、「口笛吹いて(西六郷少年少女合唱団)」という曲名で、一般に広く知られることになったのだ。


そしてそのきっかけは、1963(昭和38)年4月に放映された、NHKの「みんなのうた」だったという。


ちなみに「口笛吹いて」には、日本語のオリジナルの歌詞が付けられていたそうだ。


元歌である「ボギー大佐マーチ」は軍の行進曲、「クワイ河マーチ」は戦争映画に使われた曲ということで、これに子供が興味を持つとはとても思えない。


そもそも子供の替え歌というのは、元となる日本語の歌があって、初めて作られるものだ。


どうやら当時の子供たちが目を付けたのは、「ボギー大佐マーチ」でも、「クワイ河マーチ」でもなく、「みんなのうた」で流れていた、「口笛吹いて」だったようである。


「ボギー大佐マーチ」や「クワイ河マーチ」は、子供との接点はほぼないといっていいと思うが、「みんなのうた」なら子供は日常的に見る番組である。


そして、「みんなのうた」では、オリジナルのアニメーションと共に、歌が流されていたそうなので、きっと子供にとっては、アニメ番組のオープニングを見ているような感覚だったはずである。


そうなって来ると、これはもはや疑いようもないだろう。


「サル~、ゴリラ、チンパンジ~ ♪」の歌の元となったのは、1963(昭和38)年にNHKの「みんなのうた」で放映された、「口笛吹いて」というタイトルの歌だったようだ・・・・・・。


そんなわけで次回②へ続きます・・・・・・。


(画像上、赤紫色のアジサイが目を引いて思わず足を止めた。画像下、成長を見守って来たカルガモのヒナがだいぶ大きくなった・・・・・・)


2022年2月22日 (火)

「謎フレーズ探偵」天の神様の言う通り ①

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「天の神様の言う通り」は、今すぐにどちらにするのかを決めなくてはいけない状況で、自分では即決することが出来ないので、「神様」にどちらにするのかを決めてもらおうという趣旨の歌である。


そしてこの歌は世代や地域に関係なく、現在も歌い継がれているそうで、そういう意味では恐らく知らないという人はいないのではないだろうか。


ちなみに私が子供の頃に歌っていた歌詞は次のようなものであった。


「天の神様の言う通り(A)」

どちらにしようかな
天の神様の言う通り
なのなのな


ご覧のように歌詞は非常にシンプルで、個人的にはこれ以外の歌詞のものは、当時は一度も聴いたことがなかった。


ちなみにこの歌、調査をしてみると、「どちらにしようかな、天の神様の言う通り」の前半部分と、「なのなのな(歌詞は色々ある)」の後半部分に分かれていることが分かった。


で、前半部分の歌詞については、誰に聞いても大した違いはなく、「どちらにしようかな」が「どれにしようかな」になっていたり、「天の神様」が「神様」になっていたりする程度であった。


ところが後半部分に関しては、聞く人ごとに歌詞が違っていたと言ってもいいほど、じつに様々な歌詞のものが出て来て正直かなり驚いた。


そして今回聞き取り調査をしたものに関しては、大きく5つの系統があることが分かったので、順を追ってご紹介して行きたいと思う・・・・・・。


まず、冒頭でご紹介した、私が子供の頃に歌っていた「歌詞A」についてちょっと書いておこうと思う。


「歌詞A」の後半のパートは、「なのなのな」と非常にシンプルなのだが、「なのなのな」とはいったいなんのことだろう。


子供の頃は歌詞の意味など気にせずに、単純に「そういうもんだ」と思って歌っていたので、意味なんて深く考えたこともなかった。


しかし、今こうして改めて見てみると、全く意味の分からない、謎のフレーズであることに気付かされる。


そして今回の聞き取り調査では、この「なのなのな」のように、「シンプルなんだけど意味の分からないフレーズ」というのが、いくつか出て来たのだ。


そしてそれは、どれもとても短いフレーズだったので、続けて一気にご紹介してみたいと思う。


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「天の神様の言う通り(B)」

どちらにしようかな
天の神様の言う通り
あのねのね


「天の神様の言う通り(C)」

どちらにしようかな
天の神様の言う通り
おすすのす


「天の神様の言う通り(D)」

どちらにしようかな
天の神様の言う通り
あべべのべ


「天の神様の言う通り(E)」

どちらにしようかな
天の神様の言う通り
けけけのけ


「天の神様の言う通り(F)」

どちらにしようかな
天の神様の言う通り
れれれのれ


「歌詞B」の「あのねのね」だけは、なんとなく意味が通じるものの、その他のものに関しては、なんのことやら意味がさっぱり分からない。


ちなみに「歌詞E」の「けけけのけ」には、「げげげのげ」と濁るバージョンもあったので、もしかしたら元ネタは「ゲゲゲの鬼太郎」なのかもしれない。


また、「歌詞F」については、漫画(アニメ)繋がりで、元ネタは「レレレのおじさん」のような気がするのだがどうだろう。


ちなみに「レレレのおじさん」とは、「天才バカボン」をはじめ、複数の赤塚不二夫作品に登場する人気のサブキャラクターで、いつもホウキを持って、道を掃いているおじさんである。


で、結論としては、これら「歌詞A~F」の後半の歌詞には、どうやら特別意味はなくて、語呂がよくなるように文字を並べただけの、いわば呪文のようなものと考えればよさそうである。


という訳で、これらの歌詞のものを仮に「呪文系統」と呼ぶことにする・・・・・・。


そしてこの呪文系統の次に多く見られたのが、後半の歌詞に「鉄砲」が出て来るものだった。


仮にこれを「鉄砲系統」と呼ぶことにする。
それがこちら(↓)。


「鉄砲系統(A)」

どちらにしようかな
天の神様の言う通り
鉄砲撃ってバンバンバン
(もひとつおまけにバンバンバン)


「鉄砲系統(B)」

どちらにしようかな
天の神様の言う通り
鉄砲撃ってドンドンドン
(もひとつおまけにドンドンドン)


じつはこの「鉄砲系統」のものは、歌詞の「鉄砲」の部分が、「大砲」に変化しているものも見られた。
「歌詞B」では「ドンドンドン」と歌っているので、むしろ「大砲」の方がしっくり来るように思う。


ちなみに()内の歌詞に関しては、歌わないバージョンもあったという意味である・・・・・・。


という訳で、今回は「天の神様の言う通り」の5つの系統のうち、「呪文系統」と「鉄砲系統」の2つをご紹介させてもらった訳なのだが、いかがだったろうか。


みなさんが子供の頃に歌っていた「天の神様の言う通り」は、この中にあっただろうか。


もし、なかったという人も安心していただきたい。


次回は残りの3つの系統、「お豆系統」、「放屁系統」、「数字系統」をご紹介して行く予定なので、この中のどれかには、きっと当てはまるものがあるはずである・・・・・・。


(画像上、寒い時期に咲く花のため、ソシンロウバイはとても花期が長い。画像下、いつも同じ場所で出会うアカハラ)

2020年6月26日 (金)

窓に激突したコジュケイ

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私が小学生の頃の話なのだが、ある日、学校から帰って来て、何気なく縁側を覗いて見たところ、隅の方に見慣れない大きな鳥かごが置いてあることに気付いた。


私は「え?」と思って、鳥かごの中をそっと覗き込んでみた。
すると中にはウズラのような体形をした見たこともないカラフルな鳥が入っていた。


当時の私の印象では、大きさはハトよりも少し大きく感じた。


私は「な、なんだコイツは・・・」と思わず絶句して、玄関前をほうきで掃いていた母に、「ねえねえ、縁側にいる鳥はなに?」と小走りに聞きに行った。


母はのん気なもので、「ああ、忘れてた」と言うと、昼に起きた事件についてゆっくりと語り始めた・・・・・・。


その日の昼下がり、母はお茶を飲みながら、テレビでサスペンスドラマを見ていたという。


するとなんの前触れもなく、窓ガラスが突然、「バン!」と大きな音を立てたのだという。


その時、母はサスペンスドラマの緊迫した場面に集中していたため、その大きな音に思わず飛び上がるほど仰天し、何者かが家の窓ガラスに発砲して来たんじゃないかと思い、身の危険を感じるほどの恐怖を感じていたという・・・・・・。


しかし、よくよく考えてみれば、こんな見るからに金目の物が何もなさそうな家に、わざわざ拳銃を向けるような、バカなことをするやつはいないだろう。


そこで母はカーテンに身を隠しながら、恐る恐る窓の外をチラリと覗いて見たという。
気分的には物陰に身を隠しながら、拳銃を片手に周囲をチラチラとうかがっている刑事といったところか。


あたりに怪しい人物は特に見当たらなかったので、安心した母はとりあえず外に出て、音の原因を探ってみることにした。


そして外に出ようと窓をガラリと開けたところ、縁側の上に横たわるあのカラフルな鳥を発見したのだという。


母が言うには、「最初見た時はピクリとも動かないので死んでいると思った」そうだ。


一瞬、「撃たれたのはこの鳥か!?」と、まだサスペンスドラマを引きずっていたが、どうやら周囲の状況から見て、あの「バン!」という大きな音は、この鳥がうちの窓ガラスに激突した時の音らしい・・・・・・。


母は縁側に横たわる鳥をかわいそうに思って、物入れにしまってあった大きな鳥かごを取り出して来ると、セキセイインコ用のエサと水をセットしてから、横たわっている鳥を抱き上げて、かごの中に入れて様子を見ることにした。


鳥は相変わらず、ぐったりと横たわったままだったが、抱き上げた時はまだ温かかったそうで、「もしかしたら生きているかもしれない」と思ったという。


そして鳥が目覚めたのは、「その一時間後ぐらいだと思う」とのことだった。


しかし、その時点では、座ったまま立ち上がることはなく、「ボー」っとあたりを見回していて、どうやら脳震盪を起こしているようだったという。


母は私と一緒にかごの中を動き回るカラフルな鳥を見つめながら、「あの時は骨折して歩けないんじゃないかと心配してたけど大丈夫そうだねぇ」とホッとした様子だった・・・・・・。


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私は突然うちの縁側に現れたこのカラフルな鳥がかわいく思えて来て、母に「飼いたい!」と言ったのだが、「バカ言ってんじゃないよ!あんなバカでかい鳴き声で鳴かれたら、近所から苦情が来るよ!」と即答して来た。


今のところ、このカラフルな鳥は、出会ってから一度も声を発しておらず、なんとも大人しいものである。


私にはこの鳥がそんなやかましい鳴き声を発するなんて、ちょっと信じられなくて、母にこの鳥はどんな鳴き声で鳴くのかと聞いてみた。


すると母は、「なに言ってんの~!お前もしょっちゅう聞いてるでしょ?ピッコロホイ!ピッコロホイ!ってさ」と、私がこの鳥を知らないことを意外な様子だった。


母は「ピッコロホイ」と言っていたが、一般的には「チョットコイ」と聞きなされることが多いその鳥の鳴き声は、コジュケイと言う野鳥のものだった。


当時コジュケイは早朝から大きくよく通る声で、「チョット~コイ!チョット~コイ!チョット~コイ!」とリズミカルに鳴いていた。


コジュケイはキジの仲間で、本州以南の冬に積雪のない暖かい地域に分布し、耕作地と雑木林が隣接しているような環境に好んで生息している。


コジュケイはもともとは、中国中南部原産の野鳥だったが、1920年頃に東京、神奈川などで放鳥され、狩猟の獲物とされて来た歴史がある。


私の出身地である神奈川県横浜市でも、昭和30年頃までは狩猟が普通に行われていたらしく、鉄砲をかついだ男性が、狩ったコジュケイの首を鷲掴みにして、カメラに向かってポーズしている白黒写真を何かの本でちらっと見たことがある。


写真の風景を見ると、周囲は谷戸地形が広がっていて、きっと相当な田舎の方なのだろうと思っていたのだが、撮影された場所の住所を見ると、なんとうちのすぐ近所で、それがまた衝撃であった・・・・・・。


私が子供の頃は近所には畑が多く、小さな雑木林もまだ点々と残っていたので、どうやらコジュケイが生きて行くには、最適な環境だったようだ。


しかし、コジュケイはちょっとした緑地や、緑の多い公園のような場所があれば、十分生きて行けるようである。


都市化が進んだ現在でもそのような場所が近くにあれば、コジュケイのけたたましい鳴き声を、今でも身近に聞くことが出来る・・・・・・。


ところでコジュケイは、「声はすれども姿は見えず」という鳥で、臆病な性格もあって、雑木林や藪の中を、身を隠しながら移動することが多く、開けた場所に堂々と現れることは稀である。


私も子供の頃は鳴き声だけは毎日のように聞いていたのだが、姿を見たことはそれまで一度もなかった。


大人になって里山歩きをするようになってからは、コジュケイの生態も少しずつ分かって来て、子供の頃は、「声はすれども姿は見えず」だったコジュケイが、意外と簡単に観察出来る野鳥だったことに気付いたのだった・・・・・・。


ところで、うちの縁側に横たわっていたあのコジュケイだが、どうやら飛んでいる最中に、窓ガラスを通り抜けられると思い込んだらしく、そのままの勢いで窓に激突して、その衝撃で気絶してしまったらしい。


当時住んでいた家の周りは木々が多かったので、それが窓ガラスに映りこんで、窓の向こう側にも、自分が飛んで来た方向と同じような環境が広がっていると勘違いしたようだ。


当時、母は「コジュケイという鳥はバカだから」と、口癖のように言っていたのだが、何を根拠にそのようなことを言っていたのか未だに謎である・・・・・・。


(画像上、土手で咲くホタルブクロの花。画像下、八重咲のドクダミの花)


2019年3月11日 (月)

コンビニのおにぎりとカップ麺への不満

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コンビニのおにぎりは初めからのりが巻いてある「しっとりタイプ」と、のりを自分で巻く、「パリパリタイプ」がある。


どちらが好きかは好みの問題で、しっとりもパリパリも、それぞれの良さがあるので、その日の気分で選ぶ人も多いかと思う。


しっとりタイプのおにぎりは包みをはがせばそのまま食べられるが、パリパリタイプのおにぎりはパッケージに書かれた作り方の順番に従って、のりを自分で巻いていかなければならない。


人によっては、これを面倒に感じたり、巻き方が分からずに、パッケージを全部はがしてしまう人も少なくない。
短気な人やせっかちな人、細かいことを気にしない人、一部の年配の人などがそうだ・・・・・・。


短気な人やせっかちな人は、コンビニの袋から買って来たおにぎりを取り出すと、パッケージに書かれている説明を読む以前に、「めんどくせ~!」とばかりに、バリバリとパッケージをはがしてしまい、「白いおにぎり」と「のり」の入った外包みに分けてしまう。


そして、パッケージから取り出した「のり」を、「白いおにぎり」に巻いてさっさと食べ始める。
確かにパッケージの指示通りにおにぎりを作るより、早く食べられる気がしないでもない。


しかし、手がご飯でベタベタになったり、はがしたパッケージがバーッと周りに広がってしまい、見た目があまりきれいではないのが、個人的にはちょっと気になる・・・・・・。


細かいことを気にしない人も、おにぎりの作り方を無視する。


無視するというか、単純に細かいことを気にしないので、日常のごく普通の流れの中で、話をしながら、ペリペリとおにぎりのパッケージをはがして行き、「白いおにぎり」と「のり」にきれいに分けてから、それを巻いて当たり前のように食べ始める。


細かいことを気にしない人は、短気な人やせっかちな人と違って、落ち着いて淡々とおにぎりを作っているので、話をしていたりすると、知らないうちにおにぎりが出来上がっていて、こちらも気付かないこともある・・・・・・。


ちなみに私は「パッケージの指示通りにおにぎりを作って行く派」なのだが、順番を守っておにぎりを作って行っても、「のり」の端っこの方がいつも少しだけちぎれて、パッケージの隅っこに残ってしまう。


完成したおにぎりはどこからどう見ても、きれいに出来ているので別にいいのだが、パッケージの端っこに残ったのりがもったいなくて、結局パッケージをはがして、のりを取り出して食べてしまう。


「それなら初めから全部はがして作ればいいじゃん」と言われそうだが、きれいに作れる時もあるのだ。


それに出来ることなら、手もベタベタにならず、はがしたパッケージも①、②、③の順番で捨てて行ければ、あとはおにぎりを食べてしまえば、きれいさっぱり手元には何も残らず、視覚的にも美しいではないか。


何よりも「自分は完璧におにぎりを作り、そして食べたのだ!」という達成感が大きい。


まあ、言ってしまえば、フィギュアスケートの選手が、試合の前に、「ノーミスの演技を目指す」と言っているのと同じことである・・・・・・。

 

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最近はカップ麺も作り方が複雑になった。


ひとつのカップ麺の中に複数の小袋が入っていて、お湯を注ぐ前に入れるやつと、召し上がる直前に入れるやつがあったりして、面倒なことこの上ない。


お湯を注ぐ前に入れる「かやく」を、他の袋と間違えて、召し上がる直前に入れてしまったりすると、かやくが乾燥したままで野菜にならず、硬くて食べられたものではない。


かと言って、かやくが軟らかくなるまで待っていると、今度は麺が伸びてしまうという悪循環に陥る。


作る前にしっかり確認すればいいのだが、テレビを見ながら作っていたりすると、ついついいい加減になってしまう・・・・・・。


更に困ってしまうのは、カップ麺によって作り方がバラバラで、統一性がないことだ。


前に食べたやつは、スープの素を後から入れたので、今回のも後から入れるのだろうと思い込んで、同じように作ってしまうと、じつは違っていたなんてこともしばしばある。


また、麺にお湯を注いで3分待って、「さあ、食べよう!」とフタを開けて麺をすすったら、まだ硬かったなんてことも最近はよくある。


私はカップ麺は、「お湯を注いで3分待って出来上がり」の時代を長く生きて来たので、「お湯を注いで3分」が体に染みついてしまっており、お湯を注ぎながら時計をチラ見し、3分後の時間を確認して、決してそれを疑わないところがある。


習慣とは本当に恐ろしいものだ。


しかし、最近のカップ麺はお湯を注いで3分待つものから、4分待つもの、長いものだと5分待つというものまである。


でも、個人的にはカップ麺は3分でなければいけないと思うのだ。


ウルトラマンがどんなに時代が変わっても、3分しか地球にいられないように、カップ麺の3分も、「変えてはいけないもの」のように思う・・・・・・。


お湯を注ぐと言えば、麺にお湯を注いだ後のフタの上に、スープの袋を置いて温めておいて下さいと、事細かに指示してあるものがよくある。


最近はそう書かれているものが多いので、みんなそうなのかと思って、毎回乗せて温めていたら、カップ麺によっては、温めなくていいものも結構あることに気付いた。


あまり意識しすぎて、無意識に「スパイス」と書かれている袋まで乗せて温めていたこともあった・・・・・・。


それにしても、カップ麺の作り方を、こんなに複雑にする必要がはたしてあるのだろうか。


カップ麺はお湯を注いでフタをして3分待って出来上がるからカップ麺なのだ。
手軽に出来るからこそ、カップ麺の価値があると思うのだ。


生ラーメンを買って来て、麺を茹でたり、いろいろ具材を準備するのが面倒だから、カップ麺を買って来るのだから、作り方を複雑にしたら意味がないではないか・・・・・・。


カップ麺はラーメンだけではない。


焼きそばもかなり沢山の種類が出ている。
しかし、個人的にはカップ焼きそばは、カップラーメンに比べてかなり不満がある。


なにが不満かと言えば、カップ焼きそばは、焼くことをしていないのだから、そもそも「焼きそば」ではないと思うのだ。


鉄板やフライパンで焼くからこその「焼きそば」であり、カップ焼きそばは焼いていないのだから、間違っても焼きそばではない。


味だってちょっと冷静になって考えてみて欲しい。
焼きそばの味がするだろうか。


日本人はなぜこれを「焼きそばだ」と信じて疑わないのだろう。


まあ、これはこれで美味いからいいのだが、焼きそばとは別の食べ物であることは確かだ。


「焼きそば」に対して言うなら、「茹でそば」と言ったところか。
「茹でそば」ではいかにもまずそうだから、焼いてはいないけれど、「焼きそば」にしたのかもしれない・・・・・・。


と、そんな私の思いが通じたのかどうか知らないが、最近ペヤングから、「ペヤングカップ焼きそば」専用のホットプレートが発表された。


いつもカップの中だけで調理していたカップ焼きそばを、ホットプレートで調理するためのものだという。


このホットプレートで作る時は、カップの中にお湯は入れず、ホットプレートでお湯を沸かし、この中にカップから取り出した麺を投入し調理するのだそう。


当たり前だがソースやかやくはカップに付いているものをそのまま使う。
ホットプレートなのでお湯がなくなった後は焼く工程も入る。


「茹でそば」が「焼きそば」になった瞬間だ。


しかし、出来上がった焼きそばの見た目は、いつもの「ペヤングカップ焼きそば」と全くいっしょである・・・・・・。


何度も言うが、手軽に出来るからこそ、カップ麺の価値がある。


個人的にはカップ焼きそばをわざわざホットプレートで調理するなら、生麺の焼きそばを買って来て、正真正銘の焼きそばを作って食べるけどなぁ~・・・・・・。


(画像上は春の使者フキノトウ、画像下はそろそろ旅立ちの時が近づいて来たトモエガモ)

2019年2月27日 (水)

突然現れるパンツの謎

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バス停にはコンクリートの土台に、「停留所の名前」、「運行ルート」、「時刻表」などが付けられた標識が立っている。


私が中学生の頃、近所のバス停の標識に、女性もののパンツがかぶせてあったことがあった。


最初はそんなところにパンツがかぶせてあるなんて夢にも思わないので、誰かが落し物のハンカチか何かを拾って、かけてあるのだろうと思っていた。


しかし、近くまで行ってみると、それはどこからどう見ても女性もののパンツだった。
いったい誰が何の目的でこんなところにパンツなんてかぶせたのだろう・・・・・・。


パンツはちょうど停留所の名前が書かれている部分を隠すように、すっぽりとかぶせられていて、もうこれ以上伸びないというくらいきっちりとはまっていた。


その光景は見れば見るほどバカバカしくて、思わず「プッ!」と吹き出してしまいそうになる。


「誰だか知らないけどバカなことをするな~」と思いながらその場所を通過し、家に着くころにはそんなことはもうすっかり忘れていた・・・・・・。


翌朝、学校へ行く道を大あくびをしながらトボトボ歩いていると、昨日のあのバス停が見えて来た。
バス停には5~6人の客が並んでいるのが見えた。


そして、かなり離れた場所からでも、バス停の標識には昨日と同じように、女性もののパンツがすっぽりとかぶせられていることが確認出来た。


なんだか変態のおやじが頭にパンツをかぶって、「気を付け!」をしているみたいで笑える。


まるで軍の指揮官のように、「ピシッ!」と姿勢の良い変態のおやじを先頭に、その手下の者たちが、ごく普通の格好で、平然とした顔で整列をしているように見えて来る。


指揮官がパンツを頭にかぶった変態のおやじだというのに、あんなにも忠誠を誓った手下の者がいるなんて、あの変態のおやじは見かけによらず、よほどカリスマ性のある人物なのだろう。


そんなバカバカしいことをあれこれ想像していたら無性におかしくなって来て、私は時折「プッ!」とか「へへっ!」などと声を発しつつ、顔を不自然にゆがめながら、バス停を急ぎ足で通過した。


標識にかぶっているパンツを間近で見たら、間違いなく爆笑してしまうと思い、ただ、ただ、地面を見つめながら必死で歩いていた・・・・・・。


結局バス停のパンツは1週間以上そのままになっていた。
みんな、「誰かが片付けるだろう」と思って、手を付ける者はいなかったのだろう。


しかし、片付けるにしても、それが女性もののパンツであること、そしてバス停の標識にきっちりはまっているので、外すのに手こずりそうなこと、更に外した後のパンツの処理をどうするかなどの問題があって、「早く片付けたい」と思っている人も、実際に行動するとなると、かなり抵抗があったのではと想像される。


善意でパンツを片付けようとしているのに、「バス停の標識に女性のパンツをかぶせている変態がいた」と思われる可能性だってある。


また、苦労して外したパンツを握りしめているところを人に見られでもしたら、通報だってされかねないだろう。
そんなリスクを背負ってまで、パンツを外そうとするものはいなかったということだ・・・・・・。


その後、誰がいつ外したのか、パンツはいつの間にかなくなっていた。


一部の同級生の間で、交番に拾得物としてあのパンツが届けられているという噂が広まったことがあったが、「お前、本当かどうか聞いて来いよ」と言われても、誰も確かめに行く者はいなかった・・・・・・。


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私が小学生の頃はなぜだか知らないが、このように普通ではありえない場所に、突然女性もののパンツが現れることがよくあった。


子供の頃、近所の小さな公園にパンダの遊具があって、上にまたがって体を前後に揺らすことで、パンダがゆらゆらと揺れる仕組みになっていた。


小学5~6年の頃、このパンダの遊具が女性もののパンツを履いていたこともあった。
バス停の標識と違って、パンダの遊具はちゃんとパンツを履いていた。


ただ、ちょっとパンツが小さくて、尻を隠し切れていなかったことを今でもはっきりと覚えている。
人間に置き換えて考えてみると、尻の割れ目を隠し切れていない半ケツ状態である。


パンツを履いているパンダを見た瞬間、思わず笑ってしまったのは言うまでもないが、それと同時に、「ああ、このパンダはメスだったんだな~」と真面目に思っている自分もいた。


そう言われてみれば、パンダの口の周りはまるで口紅を付けたような赤い縁取りがあったし、顔の表情もどこか女性っぽかった気がする・・・・・・。


うちの近所には大きな団地があって、当時同級生の半数近くはこの団地に住んでいた。


団地の中には子供用のちっちゃな広場があって、一応小さいながらも、球技用のグラウンドを想定して作られていたようで、周囲をきちんと金網で囲ってあった。


中には誰が準備したのか、野球のボールやサッカーボール、バスケットボール、バレーボールなどがカゴに入れられて置いてあった。


ある日、バスケットボールの1つに、なぜかパンツがすっぽりとかぶせられていることがあった。
もちろん女性用の下着である。


ボールは丸いので、なんだか本物のお尻みたいに見えて来て、妙な色気を放っていたのを覚えている。


こんなに愉快な物を見つけたからには、それで遊ばずにはいられないのが、小中学生の頃の男子というものだ。


ただ、バスケをしているだけなのに、ボールにパンツがかぶっているというだけで、なぜかいつもの千倍楽しい。


まるで、お笑い芸人のネタを見ながらバスケをしているみたいで、腹がよじれんばかりに笑いながらシュートを決めていた・・・・・・。


お笑い芸人は客を笑わせるために、時間をかけてネタを作り、相方と入念にネタ合わせをして、何か問題が見つかれば、その部分を何度も修正しながら、ようやく1つのネタが完成する。


1本のネタが日の目を見るまでには、客の見ていない場所で、想像を絶する苦労と長い時間がかけられているのだ。


ところがこのパンツをかぶったバスケットボールは、何の前触れもなく突然そこに現れて、偶然それを見つけた我々を、何の苦労も労力もなしに、爆笑の渦に巻き込んで行った。


ただ、パンツがかぶせてあるバスケットボールというだけなのに、はっきり言って、お笑い芸人のネタをはるかに超える面白さだった。


私たちはバスケをしながら、これまで生きてきた中で、今が一番面白い瞬間を体験しているという実感があった。
それを聞いたらお笑い芸人は、きっと、「やってられない」と思うだろう。


しかし、事実なのだから仕方がない。
お笑い芸人がパンツをかぶせられたバスケットボールに負けた瞬間だ・・・・・・。


いつもの千倍楽しいバスケは、いつもの千倍疲れた。
家に帰るころには、みんなへとへとになっていた。


バスケで疲れたというよりも笑い疲れたのである。
その日の晩は昼間笑い過ぎたのが原因で、腹筋が痛くて寝返りを打つのも辛かった・・・・・・。


それにしても、当時はなんでまた、日常生活の片隅に、突如として女性もののパンツが出現することがよくあったのだろう。


強風で洗濯物が飛ばされて来たというのなら分かるが、それならば道に落ちているはずだ。


わざわざ自分からバス停の標識や、パンダの遊具、バスケットボールにはまりに行くパンツはいないだろう。
どう考えても、人の仕業だと思うのだが、いったい誰が何の目的でそんなことをしているのだろう。


いたずらといえばそれまでだが、当時はそのことをオカルトチックに考える同級生がいて、まるで都市伝説みたいに語る友人もいた。


しかし、個人的にはそんなおどろおどろしいものではなくて、パンツが突然目の前に現れて、ありえない場所にきっちりとはまっているという、なんともバカバカしい光景が、ただ、ただ、面白くて仕方がなくて、パンツが出現するたびに、「また出た!」と叫びながら、大笑いしているだけなのであった・・・・・・。

(画像上は里山で咲き出したマンサクの花、画像下は面白い格好で、よちよち歩いていたオナガガモのメス)

2019年2月10日 (日)

道端のうんこ

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道を歩いていて、うんこを踏んづけた時ほどショックに感じることはない。


足の裏から伝わって来る「ぐにゃり」という嫌な感触で、「今、もしかしたら、うんこを踏んづけたんじゃないか」とまず思う。


そして、そうでないことを必死に祈りながら、足元をそっと確認する。


「やっぱり、うんこだった・・・」という時は、「なんでもっと足元を見て歩かなかったのだろう」という後悔にさいなまれ、同時に「靴底に付いたコイツをどうするか」という問題に直面し、悩まされることになる・・・・・・。


うんこと言えば汚物界の頂点に君臨するシロモノである。
そんなものが靴底一枚隔てた足の裏にこびり付いているのだ。


誰にも気付かれないうちに、一刻も早く除去したいのは言うまでもない。


うんこを踏んづけた時にまずすることと言えば、地面に足をこすり付けて、少しでも早く靴底のうんこをきれいに取り除こうとすることではないだろうか。


しかし、自分の靴底の跡がくっきりと付いて、ぺったんこになっているうんこの横で、そんなことをしていたら、道行く人に、「あいつ、あのうんこを踏んづけたんだな」と思われかねない。


現実にその通りなのだが、さすがにそう思われるのは恥ずかしいので、数メートル先に足早に移動してから地面でゴシゴシする。


ところがうんこというのはとてもしつこいもので、靴底のすべり止めの溝に入り込んで、なかなかきれいには取れないものなのだ。


さすが汚物界の王様、一筋縄ではいかない。


しかし、もう現場で出来ることと言えばこのくらいで、あとは歩きながら自然に取れてくれるのを待つしかない・・・・・・。


現場で一番やってはいけないのは、少しでもきれいにしようとして、ティッシュなどで拭き取ろうとすることだ。


慌てているとやりがちなのだが、ポケットティッシュは薄いうえに、折り目から破れやすいので、靴底だけでなく、自分の手まで汚しかねない危険な行為と言えよう。


ウエットティッシュは破れこそしないものの、目が粗く出来ていて、うんこが浸透して来やすいので、これもやめておいた方が賢明だ。


更にティッシュやウエットティッシュを使った場合、そのゴミをどうするのかという問題もある。
間違っても、その辺に「ポイ」をしてはいけない・・・・・・。


世の中にはそんな汚物界の王様をものともしない強者がいる。
井戸端会議中の主婦の皆さんである。


その日、私が目撃したのは、住宅街の小道で立ち話をしている、買い物帰りと思しき二人組だった。


そこは住宅街を縫うように通っている、決して広くはない道なので、他の人の通行の邪魔にならないように配慮したのか、立ち話をしている二人組は道の隅っこに寄って話し込んでいた。


二人は「〇〇町のスーパーはすごく安いのだが、あそこまで交通費をかけて行ったら意味がない。何とか歩いて行くことは出来ないか」ということについて話をしているようだった。


私は〇〇町のスーパーへ行くには、バス通りを歩いて行くと道は分かりやすいが遠回りになる。


しかし、住宅街を抜けて行けばアップダウンも少なくショートカット出来るので、それほど遠くは感じないということを知っていたが、見ず知らずの男が急に話に割り込んで来たら怪しまれると思い、教えたい気持ちをグッとこらえて、二人の横を通り過ぎようとしていた。


Photo_2
ところがその時私はとんでもない光景を目にしてしまった。
私に背を向けていた主婦Aの足元にうんこがあったのだ。


道端なのでうんこがあること自体は不思議でも何でもない。
衝撃だったのは主婦Aは見事なまでにそのうんこを踏んづけたまま、立ち話をしていることだった。


うんこは主婦Aの右足に踏んづけられ、「凹」の形になって靴にきっちりとはまっていた。


しかも、このうんこはけっこう大きくて、人間がする一本糞とさして変わらないようだった。
きっと、大型犬のものだろう・・・・・・。


主婦Aはこんなに大きなうんこを踏んづけているにも関わらず、全く気付いていない様子で主婦Bとまだ「〇〇町のスーパー」の話で盛り上がっている。


主婦Bは「歩いて行けないことはないと思うが、あそこから大根やキャベツなどの重たいものを持って帰ってくるのはきつくないか」などと、悠長なことを言っていて、相方の右足がうんこにめり込んでいることなど、視界の片隅にも入っていない様子。


一方の主婦Aは巨大なうんこに右足をめり込ませたまま、仁王立ちで相方の話に頷きながらも、「たとえ大根やキャベツなどの重たいものであっても、トートバックを持って行けば大丈夫。スーパーの袋だから手が痛くなり、重たく感じるのだ」と持論を展開していた。


私は主婦Aにうんこを踏んづけていることを教えてやるべきか悩んだが、たとえ教えたところで、すでに主婦Aの靴はうんこにパックリとくわえ込まれていて、もはやどうすることも出来ない。


うんこを踏んづけていることを教えても、今さら靴がきれいになる訳ではないのだから、教えることでショックを与えパニックにさせるよりも、そっとしておいてやった方がいいのではないか・・・・・・。


そんなことを考えていたら、主婦Aは突然、「あら、嫌だ。もうこんな時間。そろそろ失礼しなきゃ」と、主婦Bに別れを告げると、そそくさと歩いて行ってしまった。


相当長い時間、この場所で立ち話をしていたのか、主婦Aの右足には半乾きになったうんこがパックリと食らいついたままで、家が近くならうんこは落ちることなく、いっしょに帰宅することになりそうな様子だったが、その後どうなったのかは、確認した訳ではないので定かではない。


私は井戸端会議中の主婦が、道端でうんこを踏んづけたまま話し込んでいるのを見たのは今回で3回目だったが、あんなに大きなうんこを踏んづけているのを見たのは初めてだった・・・・・・。


道端のうんこに気付かなかったことはまあ分かる。
しかし、あんなに大きなうんこを踏んづけたら、踏んだ瞬間に足に「何か踏んだ」という感触が絶対に伝わって来ると思うのだ。


普通はそこで足元を確認すると思うのだが、話に夢中になっている主婦にとっては、そんなことは蚊に刺されたくらいのことでしかないようだ。


更に足にあんなに大きなうんこを付けたまま、それに気付くこともなく、平然と歩いて行く姿にも驚かされる。
「普段より右足が重たいな」とは思わないのだろうか。


きっと、主婦Aの意識はもうとっくに家に帰っていて、「帰ったらやるべきこと」で頭の中がいっぱいになっていたのだろう。


人は何かに夢中になっていると、自分に起きているちょっとした事件に、全く気付いていないことがある。
私はうんこを踏んづけたまま、話に夢中になっている主婦を見るたびに、そんなことをふと思う。


そして、汚物界の王様をものともしない主婦、恐るべしである・・・・・・。


(画像上はサルの顔のようなオニグルミの冬芽葉痕、画像下はジョウビタキのオス)

2019年1月25日 (金)

巨乳という幻想

 

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 世の中のほとんどの女性は、「男性はみな巨乳好きである」と思っている。
決して間違いではないと思うのだが、女性が思っているほど、世の男性は巨乳好きという訳ではないと思う。


「巨乳!巨乳!」と言って、嬉しそうにはしゃいでいるのは、せいぜい中学生、高校生ぐらいまでである。


では、なぜ女性のみなさんは、「男性はみな巨乳好き」と思うのだろうか・・・・・・。


それはコンビニに入った時などに目に入る、週刊誌や漫画雑誌の表紙を飾っている、グラビアアイドルの存在が大きいのではないかと思う。


雑誌の表紙というのは、パッと見た時に、すぐに目に付くぐらいのインパクトが欲しい。


モデルの女の子がただかわいいだけではインパクトに欠けるのだ。
水着で露出度が高く、しかも胸まで大きいと来たら、誰もが「おっ!」と足を止めて見ることだろう。


そうすれば、雑誌を手に取って見てもらえる可能性が高くなるというわけだ。


主に男性をターゲットにしている雑誌の表紙やグラビアが、おっぱいの大きな女性ばかりだったら、女性に「男性はみな巨乳好き」と思われてしまっても仕方のないところだ・・・・・・。


しかし、世の男性が巨乳を求めるのは、雑誌のグラビアやDVDの世界にであって、リアルな現実の世界にまでそれを追求しようとする人は少ない。


雑誌のグラビアやDVDなどの映像メディアに巨乳を求めるのは、いわば「怖いもの見たさ」のような心理が人にはあるからだ。


UFOや宇宙人、幽霊やネッシーのことを、「信じがたいことではあるが、写真や映像があるなら、ぜひ見てみたい」と思うのと似ている。


しかし、UFOや宇宙人、幽霊やネッシーを見たいと思っても、現実に目の前で遭遇してみたいと思っている人は少ない。


見たいのは写真や映像であって、リアルな現実ではないのだ。
巨乳の女性についても同様で、見たいと思うのは写真や映像なのだ・・・・・・。


現実の世界ではそもそも巨乳の女性に出会うことなんて、一生ないかもしれないし、仮に出会うことがあったとしても、仲良くなれるかどうかはまた別の話だ。


「人」対「人」の世界というのは、性格や趣味、価値観、ものの見方や考え方など、その人と付き合って行く上で多くの壁がある。


うわべだけの付き合いの相手に、グラビアアイドルのような笑顔で、ビキニ姿を披露してくれる女性がいる訳がない。


現実に付き合いたいと思うのは、そんな不確かなものではなく、単純に自分と同じ波長で生きている相性のいい女性だろう。
その女性が胸が大きいとか小さいとかは、後からついてくるおまけみたいなものだ・・・・・・。


個人的なことを言うと、巨乳の女性とは縁がなくて、これまでの人生では一度も出会ったことがない。
付き合う、付き合わないとかいう以前に、身近な環境に巨乳の女性が現れたこと自体が一度もないのだ。


恐らくほとんどの人がそうなのではないか。
巨乳人口はそのくらい少ないものだと私は思っている。


そのせいもあって、私は「そもそも、世の中に巨乳なんて、本当はいないんじゃないか」とさえ思っていた時期があった。


「巨乳」は写真や映像の世界だけに存在するもので、じつはおっぱいだけCGで作られていて、それを貼り付け、加工されているのではないか。


もしくは優れた特殊メイクの技術で、偽の大きなおっぱいを作り上げているのかもしれない。


更にはその両方の技術を融合させれば、本物と見紛うほどの、かなりリアルなものが作れるのではないか。


もはや私の頭の中にあったのは、誰が何のために作っているのかも知れない、ニセモノのUFO映像のような怪しい世界で、それと同様のものが「巨乳」というジャンルにも存在しているのではないかという疑惑だった。


また、テレビのミステリー番組を見た直後には、それに影響されて、「巨乳は人によく似た姿をしているが、じつはUMA(未確認生物)か宇宙人で、人知れず人類社会に紛れ込み、普通に生活しているのだ」などという、その筋の専門家が言い出しそうな仮説まで提唱し始める始末・・・・・・。


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身近な環境では巨乳の女性と出会ったことのない私だが、街を歩いていると、たまにおっぱいの大きな女性とすれ違うことはある。


こういう時は、「そもそも世の中に巨乳なんていないんじゃないか」という疑問はすっかり忘れ、「そもそもあの乳は本物なのか」という疑問にうって変わる。


街を真っ裸で歩いている女性はいない。
あの大きな乳が本物かどうかなんて、はっきり言って服を脱いでみなきゃ分からないではないか。


もしかしたら、スタイルをよく見せようとして、何か詰め物をしているのかもしれないし、胸だけ着ぶくれする服なのかもしれない・・・・・・。


また、いわゆる「ハト胸」の人もいる。


女性の場合のハト胸は2タイプある。
1つ目は「単純に乳だけが大きい人」で、いわゆる巨乳の人。


問題は2つ目のタイプで、「乳は決して大きくないが胸板が厚い人」だ。


このタイプはウエストが細くてスリムな人なら、普通に巨乳に見えてしまうので紛らわしい。
胸板が厚いので、バストは95センチあるが、カップサイズはそうでもないという人がこのタイプ。


どうやら、スポーツをしていて、筋肉質の人に多いタイプのようだ。
現実にはこの2つ目のタイプの方が多いのではないかと個人的には思うのだがどうだろう。


真の巨乳なんてそうそういるものではないと私は思うのだ・・・・・・。


私は自然と触れ合うのが好きなので、よく里山に散策に出かける。
自然の中を歩きながら、植物や昆虫、小動物、田園風景などを写真に収めていく。


ある日、アマガエルを見つけて、写真を撮っていたところ、いつの間にか後ろに人が立っていることに気付いた。


その女性は、「かわいい。全然逃げないんですね」とアマガエルをのぞき込んでいる。
私は「脅かさなければ逃げませんよ」と話しながら、その女性が大きな胸をしていることに気付いた。


私は先にも書いた通り、巨乳の女性とは縁がないせいか、こういう時に「おおっ!」と思うことは少なく、「これは本当に乳のふくらみなのか?」と相手の女性には大変失礼なことを考えてしまう。


この時も女性とアマガエルについて会話を交わしながらも、頭の中では腕を組んで頭をひねっている自分がいた・・・・・・。


その時だった。
なんと女性の乳が動いたのだ。


一瞬、自分の目を疑ったが、確かに女性の乳は少し動いたと思う。


反射的にボディービルダーがポージングをしながら、大胸筋をピクピクさせている姿が頭をよぎって、思わず「プッ!」と吹き出しそうになる。


しかし、その直後、女性の乳は信じられないことに、波打つように大きく動いた。
女性自身は全く動いていないのに、乳だけがぐにぐにと動いている。


子供のころに読んだ昔話に、脳天が「カパッ!」と開いて大きな口が現れて、頭の口から大量のおにぎりをパクパク食べだす嫁(妖怪)の話があったのをふと思い出した。


もしや、この女性も胸から何か現れるんじゃないかと身構えていたところ、胸がぐりんぐりんと回転するような動きをし始め、次の瞬間、女性の襟元から白い筒状のものが飛び出て来て私は仰天した。


女性の襟首から顔をのぞかせていたのは白いフェレットの子供だった。
「ほら、おとなしくしてなさい!」となだめられながら、白いフェレットは女性に抱っこされた。


なでさせてもらったところ、見た目とは裏腹にフェレットの毛はとても硬くて驚いた。


そして、同時に女性の巨乳もなくなっていることにそのとき気付いた。


どうやら、巨乳はフェレットが加担していることもあるらしい。


私が本物の巨乳と出会うことが出来るのは、いったいいつのことになるのだろう・・・・・・。


(画像上はロウバイの花、画像下はコガモ)

2019年1月 2日 (水)

「すごいな~」と思うこと

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映画やドラマを見ていると、主人公が歯を磨きながら部屋の中をウロウロしているシーンがよく出て来る。


歯を磨きながらテレビを見ていたり、家の中をあちこち歩き回りながら探し物をしていたり、時にはピンポンが鳴って宅配便を受け取ったりもしてしまう。


「すごいな~」と思う。
私にはとてもじゃないがマネの出来ない芸当だ。


なぜかというと、私の場合、歯磨きを始めて30秒も経過すると、歯ブラシを咥えている口の隙間から、ツツーっと歯磨き粉が垂れてくるからだ。


だから歯を磨きながら歩き回るなんてちょっと考えられない行為だと言えよう。
みんなは歯磨きの時、歯磨き粉が垂れてこないのだろうか・・・・・・。


学生の頃、映画やドラマのそんなシーンを「かっこいい」と思っていた時期があって、それをマネして歯ブラシを咥えて部屋の中を用もないのにウロウロしてみたことがあった。


ドラマのワンシーンのようにカッコよく、リモコン片手にテレビのチャンネルを変えてみたり、視力がいいので持ってもいないメガネを意味もなく探してみたりしたのだが、結果は予想していた通り、まるで私を追跡するかのように、歯磨き粉が点々とこぼれ落ちていた。


慌てて口をゆすぎ、ティッシュで拭いて歩いたのだが、歯磨き粉というのはとてもしつこくて、その時はきれいに拭き取れているように見えても、翌日になると白く浮き上がって来て、謎の白いシミとして家族を不気味がらせていた。


そんな訳で個人的には歯を磨いているとき、歯磨き粉がツツーっと垂れて来るのは普通のことなので、歯磨き中に歯ブラシを咥えたままウロウロ出来る人というのは、よっぽど唾液の量が少ない人なのではないかと思うのだ。


それとも、逆に私の方が唾液の量が多い人なのだろうか・・・・・・。


洗顔料を付けて顔を洗っているとき、たいていの人は目を閉じていると思うのだが、まるで見えているかのように的確に泡を洗い流して行く人も「すごいな~」と思う。


私の場合、きれいに洗い流したつもりでも、たいていは顔の縁と鼻の両サイドあたりにかなりの確率で泡が残っている。
鏡で確認しながら、2度3度と洗い流すこともしばしばだ。


なぜ、見えていないのに、「ここに泡が残っている」ということが分かるのか不思議でならない・・・・・・。


「人は潜在的には誰でも透視能力がある」と聞いたことがあるが、顔を1発できれいに洗える人を見ていると、本当に見えているんじゃないかと思えて来る。


身近なところにもそんな人がいるので話を聞いてみたところ、「そんなバカな、だいたい勘で分かるでしょ」と言う。
こっちは「だいたい勘で分からない」から聞いているのだ。


しかし、普段の彼女を見ていると、とても透視能力がありそうには思えない。


お中元やお歳暮でもらった箱の中身を予想させても、全く違うものを答えるし、おまけ付きのお菓子やガシャポンも欲しいものが当たらない。


トランプゲームやじゃんけんも弱い。


どうやら彼女の透視能力は洗顔の時にだけ発揮されるようだ。
なぜなのだろうか・・・・・・。


それはそこに人の欲や願望のようなものが一切生じていないからではないか。
いわゆる超能力というのは、そこに雑念が絡んで来ると発揮されにくくなるという。


競馬などのギャンブルでビギナーズラックと言われるのも、初心者ゆえに余計な情報や知識を持ち合わせておらず、「絶対に当ててやる」という変な欲がないからだ。


顔を洗う時にきれいに泡を落とせても、さっぱりするだけで、そこに雑念が湧いて来る余地はない。
だから彼女には残っている泡が見えるのではないか。


まあ、どちらにしても、顔を洗う時にきれいに泡を落とせない私には、「すごいな~」と感じてしまうことに変わりはない・・・・・・。


Photo_4
外国人のスポーツ選手が、鼻の片側を押さえて、鼻水を勢いよく、「フン!」と出すところを見たことがないだろうか。
鼻水はまるで弾丸のように一直線に飛んで行き地面に着地する。


ほんの一瞬の出来事で、そこに汚らしさは微塵も感じられない。
顔や鼻の周りはきれいなまま保たれていて、「すごいな~」と思う。


競技や試合の最中にはティッシュなど余計なものを持ち込めないことから、自然に習得された技なのだろうが、「お見事」としか言いようがない。


私はそれを初めて見た時、またしても「かっこいい」と思ってしまい、よせばいいのにマネをしてみたくなった。


ティッシュで鼻を「チーン」とかんでいると、「あいつ鼻をかんでいるな」と音で周りに気づかれるし、鼻をかんだティッシュを捨てるところがなければ、ポケットやカバンに入れておかねばならず、周囲には「きたね~な~」という印象を与えてしまうだろう。


ところがあの技を習得できれば、周囲にはいっさい気づかれることなく、鼻水を一瞬で除去出来るのだ。


しかし、この技を公衆の面前で行うにはかなり勇気がいる。
失敗したときのリスクがあまりにも大きすぎる。


小さな子供ならまだしも、いい大人が鼻の下を鼻水まみれにして突っ立っていたら、いったいどう思われるだろう・・・・・・。


この技は非常にシンプルで簡単そうに見えるのだが、頭の中でシュミレーションをすればするほど、失敗している自分しか思い浮かばず、どうやら高度な技術が必要なようだ。


そこで私は不安を払拭するため、とりあえず練習を始めることにした。
ぶっつけ本番で哀れな姿をさらすより、賢明な選択といえよう。


私は花粉やホコリに反応して鼻水が出て来る「アレルギー性鼻炎」なので、年間を通してある程度、鼻水とは付き合っていかねばならない運命だ。


だからこそ、この技を習得できれば何かと都合がよい・・・・・・。


この日、私は多くも少なくもない、練習にはちょうどいい量の鼻水が鼻の中に溜まっているのを感じていた。
とりあえず、鼻水の着地点を想定してティッシュを床に数枚敷いてみるが、すぐに的を外れた時の映像が脳裏に浮かぶ。


より広範囲をカバーするためには、ティッシュの量を増やすより、新聞紙を一枚敷いてしまった方がよいと思い、見開きの状態で足元に一枚広げることにした。


さあ、準備は出来た。
練習開始である。


練習と言っても、鼻水は一度出してしまえば、次に溜まるまでにはある程度の時間が必要だ。
立て続けに発射の練習を繰り返すという訳にはいかない。


そこで私は、とりあえず、「シャドー弾丸鼻水」をやってみることにした。


鼻の片側を押さえて、鼻水を「フン!」と勢いよく出し、新聞紙の上に着地させる。
それをモーションと共にイメージしながら集中力を高めて行く。


10回ほどそれを繰り返し、ある程度のイメージが固まったので、本番を想定した練習に移ることにした。


私にはもう、床に敷いた新聞紙のど真ん中に、弾丸のように鼻水が着地するシーンしか思い浮かばなかったので、新聞紙の真ん中に一枚だけティッシュを置き、「的」とした。


さあ、いざ練習本番である。


大きく息を吸い、片鼻を押さえる。
顔を少し横に向けて勢いをつけ、正面に戻すと同時に、鼻水を「フン!」と空気の力で一気に押し出す。


その瞬間、「あれ?」という感覚があった。


鼻水は弾丸のように小さく一塊になって飛んでは行かず、糸コンニャクやところてんがニュルっと押し出されるようなイメージで鼻から飛び出して行った。


イメージトレーニングでは大きくガッツポーズをする私がいたのだが、現実にはそこに立っていたのは、鼻の下からあごにかけてヌルヌルになっている妖怪だった・・・・・・。


新聞紙の上にたった一枚、小さく広げられたティッシュが、ただ、ただ、むなしかった。


そして、「弾丸鼻水」を実際にやってみて分かったことは、外国のスポーツ選手の技はやっぱり「すごいな~」ということだった・・・・・・。

 

(画像上は池のコガモ、画像下はマサキの実)

2018年12月13日 (木)

トラディスカンティラアルビフローラ

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私が20代の初めのころの話なのだが、ペットフードを買いに出かけようとしていたら、母に「ちょっとあんた、出かけるならコレ見て来てくれない?」とメモを差し出されたことがあった。


メモ用紙には「トラディスカンティラアルビフローラ」という謎の暗号が書かれていた。


私にとっては意味の分からない文字の羅列でしかなかったので、母に「これは何?」と単刀直入に聞いてみた。
すると「観葉植物だよ」という。


当時私がペットフードを買いに行っていた店は園芸店でもあったので、「ついでに見て来てよ」ということのようだ。
母はトラディス何とかの代金までよこしたので、どうやら私に「買って来い」ということらしい・・・・・・。


もう一度メモを見直してみるが、どうにも名前は覚えられそうにない。
そこで私はとりあえず自分なりに簡単に覚えておこうと思い、パッと目に付いた単語を適当に頭に入れた。


「トラとカンテラとアルマジロなら覚えられそうだな」と思い、「トラとカンテラとアルマジロ」を何度か頭の中で復唱した。


メモをもらっているので、別に暗記する必要などないのだが、名前を少しでも覚えておいた方が、陳列されている観葉植物の中から、お目当ての「トラと何とか」を探し出す時にスムーズに行くはずだと思ったのだ。


園芸店まではバスに乗っていくので、バス停までの道のりを無駄にしてはならぬと、「トラとカンテラとアルマジロ」を何度も念仏のように唱えながら歩いて行った。


きっと、傍目には怪しげな新興宗教の信者のように見えていたことだろう。


マントラでも唱えているのかと思いきや、よく聞けば「トラとカンテラとアルマジロ」などという、意味不明なことをブツブツとつぶやいているのである。


もしかしたら、道行く人には、「危ないやつ」と思われていたかもしれない。


まあ、何はともあれ、通報されることもなく、バスに乗ることが出来たのでよしとしよう。
そして15分ほどバスに揺られて、最寄のバス停に無事に到着した・・・・・・。


まずは「ペットフードを買う」という自分の用事を済ませてから園芸コーナーへ向かった。


観葉植物の売り場に行く途中、サボテンの売り場で魅力的なサボテンを見つけてしまい、しばし足止めされてしまうことになった。


ひとくちにサボテンと言っても、様々な形のものがある。
オーソドックスな丸い形状のものから、柱状のもの、ヒモ状のもの、ヘラ状のものなど、じつに多彩だ。


また、サボテンというと、トゲトゲのイメージを思い浮かべるかたが多いと思うが、トゲが全くない種類も意外と多い。


私のお気に入りはトゲの全くない草もちのような丸いサボテンだった。
丸いサボテンの多くは普通硬いものだが、草もちのようなサボテンはその見た目の通り軟らかくて、そこもまた私的には魅力だった。


しかし、残念なことに、この草もちサボテンは、あまりポピュラーではないらしく、置いている店が極端に少なかった。
そんなこともあって、たった3鉢の草もちサボテンを観賞するのに、何と40分もかかってしまった。


もっと見ていたかったが、さすがに40分の時間のロスは大きい。
今度暇な時にゆっくり見にこよう・・・・・・。

 

Photo_2


私は後ろ髪を引かれながら、観葉植物コーナーへ移動した。
観葉植物の売り場はサボテンの売り場の倍以上はあって、そこに大小様々な植物が置かれていた。


大きなものは鉢だけで私の膝ほどの高さがあって、そこに土が入っているので、とてもじゃないが抱えて持って帰ることは出来そうにない。


このでかいのが「トラと何とか」でないことを祈るのみだ。


ここには思っていたよりたくさんの観葉植物が置いてあって、この中から目的の「トラと何とか」をはたして探し出せるのか不安になる。


せっかく頑張って、「名前らしきもの」を覚えて来たのだが、この中から「トラと何とか」探し出すのは、どうやら至難の業のようだ。


名前も分かっていることだし、ここは店員に聞いてしまった方が早いだろう。


そう思って、私はカバンに手を突っ込んで、母から渡されたメモをゴソゴソと探し始めた。
ところがなぜかメモが見つからない。


「あれ、おかしいな」とカバンの中を引っ掻き回す。


焦って探しているので、カバンのどこにメモを入れたのかも思い出せず、闇雲にカバンの中をぐちゃぐちゃにして、どこに何があるのか余計分からなくしてしまう・・・・・・。


そして、それに追い討ちをかけるように、突然現れた店員が、「お客様、何かお探しでしょうか?」と声をかけて来た。


「今、取り込み中だから、あっちに行け、しっ、しっ!」といいたい気持ちをグッとこらえて、とりあえず、「は、はあ・・・」とだけ答えておく。


店員はそれを察したのか、「なにかありましたら声をかけていただければ、ご案内いたしますので・・・」と言い残し作業に戻っていった。


もの分かりのいい店員がいなくなり、ほっと一安心した私は、再びカバンの中にあるはずのメモを探し始めるが、いったいどこに行ってしまったのか一向に見つからない。


もしかして、落としてしまったのかとも思ったが、カバンから出した記憶のないメモを落とすはずがない・・・・・・。


いくら探しても見つからないので、これはもう店員に聞くしかなさそうだ。
ここに来る前に名前を暗記しておいて正解だった。


いや、正確には暗記ではない。
「それっぽいことを、何となく覚えて来た」に過ぎない。


しかし、何も手がかりがないよりはいい。
「ええと、トラとカンテラとアルマジロだったよな」と自分に再度確認する。


「トラとカンテラとアルマジロ?」


絶対に違うなということはよく分かっていたが、メモが見つからない以上、今は「こんなニュアンスのもの」と伝えるしかないだろう。


私は意を決して、先ほどの人の良さそうな店員に、「あの、すみません」と声をかけた。
店員は「はい、何かお探しでしょうか?」と予想通りのことを聞いて来た。


もちろん、お探しのものがあるから、わざわざ声をかけたのだ。


「あの、観葉植物なんですが、名前をうっすらとしか覚えていなくて・・・」と、とりあえず正直に言ってみる。


すると、「一部分でも分かれば、お探し出来ると思いますよ」という。


しかし、当時の私はシャイだったので、堂々と「トラとカンテラとアルマジロという単語が入っていたような気がする」と、はっきりと言う事が出来ずにいた。


「どういう感じの名前でしたでしょうか?」と店員に促されて、私は仕方なく、「あの~、トラとカンテラって言うか、アルマジロ的な部分もあったような気がするんですが・・・」とモゾモゾと言った。


「お前はモジモジくんか!」と当時の私に一言突っ込んでやりたい気分でいっぱいだ。
そんな小声でモゾモゾと言っていたら、伝わるものも伝わらない。


そもそも、そんなバカバカしい名前の植物はこの世に存在していないのだ。


探している植物は、「こんなニュアンスの名前だったと思う」ということを伝えているにすぎないので、そこからあの難解な名前が導き出されて来る可能性は、極めて低いだろうな~と私は密かに予想していた。


だからこそ、そのニュアンスを正確に伝えなくてはならないのだが・・・・・・。


ところが・・・・・・だ。


店員は私のモゾモゾと話した言葉をちゃんと聞き取っていたようで、「トラとカンテラか・・・」と一瞬考えて、「ちょっとお待ち下さい」と足早に奥へ歩いて行った。


店員は1分もしないうちに戻って来ると、「恐らくこちらの植物ではないかと思うのですが」と、ハンギング仕立てになっている、斑入りの葉っぱが特徴的な植物を持って来た。


私は思わず、「え~~~!」と言ってしまいそうになり、慌てて口をつぐんだ。
まさか「トラとカンテラとアルマジロ」が通じるとは思っていなかったのだ。


店員は「こちらの植物はトラディスカンティラアルビフローラになりますね」と、「トラとカンテラとアルマジロ」の本名をペラペラと流暢に言ってのけた。


私は母からメモを受け取った時の記憶がよみがえったような気がして、「あ、そうです。それです、それです」と、反射的に答えていた。


店員は「確かにトラとカンテラとアルマジロっぽいですね~」と笑っていた。


そして、このハンギング仕立ての植物が、「トラとカンテラとアルマジロ」だと確定して、思っていたより小さくて片手で持って帰れることに私は内心ホッとしていた・・・・・・。


帰りのバスはガラガラで、余裕で座って帰ることが出来た。
ペットフードと「トラと何とか」を両手に持っていたので、座れるのはありがたかった。


バスに揺られて、脚に乗せていた荷物がずり落ちそうになり、それを元に戻そうと視線を下げた時、胸ポケットに気になるものを発見した。
それは二つ折りにたたまれたメモ用紙だった。


もはや、取り出して開いて見るまでもないだろう。
カバンの中をいくら引っ掻き回したって見つからない訳だ。


ま、結果オーライ、こうして、「トラと何とか」を無事に買えたんだし、よしとしよう・・・・・・。

 

(画像上は冬鳥のコガモ。画像下は紅葉の風景)

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