カテゴリー「商店街」の記事

2023年12月19日 (火)

消えたコンドームの自動販売機

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▲ジュースの自動販売機がずらりと並ぶ場所に、コンドームの自動販売機が今もかろうじて生き残っていた。ちなみにここは、もともとは酒屋だった場所で、現在は閉店していてすでに営業はしていない・・・・・・。

そういえば、ふと思ったのだが、最近はコンドームの自動販売機をあまり見かけなくなった。


私が子供の頃は、町のあちこちで見かけたものだが、いったいいつの間になくなってしまったのだろう。


もしかしたら、若い世代の人たちは、コンドームの自動販売機なんて、見たことがないのではないだろうか。


私が子供の頃は、薬局や酒屋の店先には必ず設置されていて、商店街の路地裏などにも、ひっそりと置かれていたものである・・・・・・。


当時、コンドームの自動販売機には、必ず「明るい家族計画」というキャッチコピーが大きく書かれていた。


そのこともあって、小学生の頃は、この中に入っているものを買えば、家族旅行の計画でも立てられるのかと思っていたものだ。


また、「計画」という言葉から、夏休みに入る前に書かされていた、タイムスケジュール表みたいなものを連想したりもしていた。


6:00 起床
6:30 ラジオ体操
7:00 朝食
8:00 夏休みの宿題


・・・・・・みたいなアレである。


旅行に行けるのはいいが、あんな面倒くさいものを書かされるのはごめんである。


せっかくの旅行なのだから、自分の好きな時間に起きて、自分の好きなように行動させてほしいものだ。


いまとなってはどうでもいい話だが、仮にそんなものを書かされるシステムになっていたとして、それをいったい誰に提出するというのか・・・・・・。


ところでコンドームの自動販売機が誕生した当初は、煙草の自動販売機を改良して作られていたらしく、当時のものは私の知っているものよりも、かなり大きなものだったらしい。


私が子供の頃によく見かけていたものは、自動販売機というよりも、箱型の発券機のような、コンパクトなものばかりだったと思う・・・・・・。


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▲昭和の頃は、「明るい家族計画」というキャッチコピーだったのだが、現在はおしゃれに「ファミリープラン」と言い換えられていた。まあ、意味としてはいっしょだが・・・・・・。

また、私が子供の頃は、コンドームの自動販売機は、薬局の店先で見かけることがほとんどで、他には酒屋やたばこ屋の店先や、路地裏などでたま~に見かけるぐらいだった。


ところがコンドームの自動販売機が登場した当初は、様々な業種の個人商店の店先に置かれていたようで、薬局の前に置かれるようになったのは、かなり後のことだったらしい。


つまりルーツをたどって行けば、コンドームとは何の関係もない、酒屋やたばこ屋に置かれていたものの方が先だったことになる訳だ。


これについては、なんだかちょっと意外な感じがする。


まあ、考えてみれば、薬局では店内にコンドームがすでに商品として置かれている訳で、普通に考えたら、わざわざ店先に自動販売機を設置する必要もないだろう・・・・・・。


じつはコンドームの自動販売機は、薬局の前に置かれてはいたが、薬局の人が管理していた訳ではなかったようなのだ。


ジュースの自動販売機がそうであるように、商品の補充などは、外から業者が回って来てやっていたようだ。


つまり薬局は場所を貸していたにすぎないことになる。


このため薬局では自動販売機が原因で、店内のコンドームの売り上げが減ることを懸念していたようで、当初は設置を渋っていたらしい。


そして現在では、コンドームはドラッグストアやコンビニなどに置かれるようになり、自動販売機の存在意義自体がなくなり、機械そのものを、もう生産していないのだそうだ・・・・・・。


私が高校生の頃の話だが、以前から教師に目を付けられていた生徒が、授業中に持ち物検査を受けることになった。


なぜ、そんなことになってしまったのかというと、学生服の胸ポケットが不自然に膨らんでいるのを、教師に見つかってしまったのだ。


誰もが「あれはたばこだな」と直感し、このあと彼はまるでヤクザのような風貌をした、生徒指導の先生の元へ連れて行かれ、きつい尋問を受けることになるのだろうと思っていた。


どうでもいいが、なんで生徒指導の先生というのは、「あの顔でよく教員免許が取れたものだ」と思うような人が多いのだろう。


変装でもして大学に通い、免許状の授与申請をしたとしか思えない。


素顔のままだったら、入学すらさせてもらえないのではないか。


で、持ち物検査を受けることになった彼だが、教師から「胸ポケットの中身を出せ!」と言われ、特に抵抗をすることもなく、素直にポケットに入っていたものを机の上に出した。


教師に「なんだこれは?」と尋ねられたが、彼は仏頂面のまま無言を貫いていた。


その様子を見た教師は、「はぁ~っ・・・」と大きくため息をついてから、彼に顔を近付けて、「もう一度聞く。なんだこれは?」と言った。


すると彼は、教師の顔をおもむろに見上げると、「なんに見えますか?」と逆に聞いた。


その態度に教師は少しムッとした様子で、「たばこに決まっているだろう!」ときっぱりと言い放った。


ところがその言葉に彼は、悪戯っぽい笑みを浮かべると、「ざ~んね~んで~した~、コレはコンドームでぇ~す!」と言ってのけたのだ。


その言葉に誰もが「えっ?」と思ったが、よく見れば確かにそれはコンドームの箱のようだった。


コンドームの箱というのは、パッと見た感じ、外国産たばこに似た、ちょっとしゃれたパッケージデザインのものがある。


どうも彼はいつも自分を注意して来る教師をギャフンと言わせたくて、胸ポケットにコンドームの箱をわざと仕込んでおいたらしい。


ところが教師は机の上のコンドームの箱を取り上げると、「コレはコレで問題だ!」というと、彼の腕を取って、生徒指導の先生の元へ連行して行ったのだった。


彼は「えっ、なんで?」という顔をしてこちらを見ていたが、廊下を歩いて行く彼の背中からは、「余計なことをしなければよかった・・・」という後悔の念がにじみ出ていたのだった・・・・・・。
 

2023年9月21日 (木)

たばことビールの自動販売機

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▲商店街にいまも残るたばこ屋の前には、まだこのように、たばこの自動販売機が置かれているが、最近はそれ以外の場所ではほとんど見かけなくなってしまった・・・・・・。

私が子供の頃は、まだ町のあちこちに「たばこ屋」が残っていた。


たばこ屋は必ず四角い小さな看板を掲げていて、赤地に白い文字で「たばこ」と書かれているか、赤地の中央が楕円形に白く抜けていて、そこに黒い文字で「たばこ」と書かれていた。


たばこ屋は畳1~2畳程度の狭い店舗がほとんどで、大半の店は店内に客が入るスペースはなくて窓口販売だった。


たばこ屋の窓口(店の外側)には、赤い公衆電話が必ず置かれていて、たばこには用がない人も、電話をかけるために、たばこ屋の赤い看板を探したりしていたものだ。


ひとくちにたばこ屋といっても、店の形態は様々で、本業の片手間にやっている店もよく見かけた。


というか、そういう店の方が多かったと思う。


例えば酒屋や米屋、雑貨屋の横に、狭い店舗が併設されていて、たばこ屋の窓口には、その店のおばあちゃんが店番をしていることが多かった・・・・・・。


また、今では考えられない話だが、昭和の頃はたばこは誰でも買うことが出来た。


だからお父さんに頼まれて、子供がたばこ屋に煙草を買いに来ている光景をよく見かけたものだ。


子供にしてみたら、ただのパシリということになるのだが、当時は「お釣りはお小遣いにしていいよ」という父親が多くて、喜んで買いに来ている子供がたくさんいたものだ・・・・・・。


ところでたばこといえば、最近はたばこの自動販売機をあまり見かけなくなった。


その理由としては、「喫煙に対する社会の変化」としか言いようがない。


昭和の頃は自動販売機のたばこは、いつでも誰でも買うことが出来たが、そのうちに23時から5時の間は販売が中止となった。


そして、2008年3月からは、未成年でもたばこを自由に変えることが問題視され、成人識別ICカード「taspo(タスポ)」が導入された。


しかし、taspoで使用している通信回線サービスが終了することから、これに合わせて2026年3月末でサービスは終了することとなった。


また、最近はコンビニエンスストアでたばこを買う人が増えて、自動販売機の需要が減り、自動販売機そのものが数を減らしているようだ・・・・・・。


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▲閉店した酒屋の前にいまも残るたばこの自動販売機。たばこの自動販売機の横に置いてあった、ビールの自動販売機はすでに撤去されてなくなっていた。個人商店が相次いで閉店して、管理する人がいなくなったのもその要因だと思われる・・・・・・。

さらに極めつけは、昭和の頃(約50年前)の男性の喫煙率は、なんと8割以上もあったというが、現在では3割以下にまで減少しているのだそう。


その数字が示すように、当時はあの国民的アニメ「サザエさん」の作中でも、波平さんやマスオさん、ノリスケさんは、家族の集まる居間で、平然とたばこを吹かしていたものだが、現在では懐からたばこを取り出すシーンは出て来なくなった。


このように喫煙者そのものが減少したことが、たばこの自動販売機を見かけなくなった一番の要因かも知れない。


いつの間にか町からたばこ屋が消えてなくなって行ったように、「昔はたばこの自動販売機があったよね」なんていう時代が、もしかしたら近い将来、やって来るのかもしれない・・・・・・。


自動販売機といえば、ビールの自動販売機も最近は見かけなくなった。


昭和の頃はジュースやたばこの自動販売機といっしょに、町のあちこちで見かけたものだが、いつの間にかどこに行っても見当たらなくなっていた。


そもそもの話、昔はビールは酒屋に注文して配達してもらうものだった。


サザエさんに出て来る三河屋のサブちゃんのように、御用聞きが町内を回っていた時代があったのだ。


ビールの自動販売機が一般的になって行ったのは、アルミ缶が誕生したことや、時代と共にライフスタイルが変化して行ったことなどが上げられる。


一人暮らしや共働きの世帯が増えると、酒屋による御用聞きや配達は逆に都合が悪くなり、仕事帰りに自宅近くの自動販売機でビールを買える方が、当時のライフスタイルには合っていたのだ・・・・・・。


ビールの自動販売機の設置台数は、1992(平成4)年がピークで、その後は少しずつ減少して行く。


その理由としては、たばこの自動販売機と同様に、未成年でも自由にビールを買えることが問題視され、メーカーが設置を自粛するようになって行ったためといわれている。


昭和の頃の不良のイメージは、体育館の裏でたばこをプカプカと吹かし、学校帰りの公園で自動販売機で買ったビールをグビグビと飲んでいる・・・・・・、昭和世代の人なら、そんな光景をどこかで見たことがあるという人も少なくないだろう。


自動販売機に年齢制限がかけられたり、町から撤去が進んだ現在では、不良も喫煙や飲酒は行わず、きっと健康的な不良生活を満喫しているに違いない・・・・・・。



2023年6月 5日 (月)

ネズミ捕り器とドラえもん

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▲自宅の廊下でネズミと遭遇し、パニックになったドラえもん。四次元ポケットから取り出したのは、なんと「地球破壊爆弾」だった。未来の世界ではこんなものが市販されているのだろうか・・・・・・。

ドラえもんは大のネズミ嫌いだ。


しかも、ただネズミが嫌いというだけではなく、ネズミが現れると冷静な判断が出来なくなり、部屋の中でマシンガンをぶっ放したりしてしまう。


てんとう虫コミックス第7巻に収録されている、「ネズミとばくだん」というエピソードでは、のび太には戦車を一発で吹き飛ばす「ジャンボ・ガン」、ママには一瞬で鉄筋のビルを煙にしてしまう「熱線銃」を持たせて、ネズミに対抗しようとしている。


どうでもいいが、未来の世界では銃刀法は廃止になったのだろうか・・・・・・。


そして挙句の果てにドラえもんは、ネズミを恐れるあまり気が変になり、「地球破壊爆弾」なるものを取り出して、よだれを流しながら、不敵な笑みまで浮かべている。


幸いなことに、結局この爆弾は使われることがなかったので、本当に地球を破壊出来る爆弾だったのかどうかは定かではない。


しかし、もしこれが本物だとしたら、未来の世界では個人がこんな物を所有出来る、物騒な世の中になっているということなのだろうか。


しかも、ドラえもんが持っているということは、たいへんリーズナブルなお値段で入手出来る爆弾ということになるのだろう。


もしかしたら、未来のテレビショッピングでは、「今日だけ1つ分のお値段で、なんと爆弾を2つお付けしてぇ~~っ!ご注文をお待ちしておりますっ!」などとやっているのかもしれない。


そんな風に誰でも簡単に強力な爆弾を入手することが出来て、地球をあっという間に破壊することが出来るとしたら、未来の世界では命がいくらあっても足りないだろう。


そう考えると、私はこの爆弾は、ジョークグッツの可能性が高いと思うのだが、本当のところはドラえもんに聞いてみなければ分からない・・・・・・。


そんな訳で、ドラえもんの作中では、家の中にしばしばネズミが出現しているのだが、これは現代ではちょっと考えられないことである。


みなさんは「家の中で突然ネズミと鉢合わせてびっくり仰天!」なんて経験をしたことがはたしてあるだろうか。


恐らく「ない」と答えるかたが大半だと思う。


現代では建物の中にネズミが現れるとしたら、それは飲食店の厨房ぐらいではないだろうか。


きっと、ネズミにしてみたら、「住みにくい世の中になったものだな~」と思っているに違いない。


じつはドラえもんの漫画が雑誌に連載されていた1970~1980年代は、世の中のじつに8割以上の建物が木造建築の日本家屋だった。


この当時はまだまだマンションと呼ばれるような、鉄筋コンクリートの建物は少なかったのだ。


じつはこのことが、ネズミが家の中に侵入して来る一番の原因だったのである・・・・・・。


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▲原作漫画のドラえもんの舞台は1970~1980年代の東京だ。当時は世の中のじつに8割以上の建物が木造建築の日本家屋だった。そしてこれこそが家の中にネズミが出る一番の原因だった。アニメのドラえもんで、野比家にいまだにネズミが出るのは、この設定を引き継いでいるからである・・・・・・。

てんとう虫コミックス第7巻に収録されている「ネズミとばくだん」というエピソードの1シーンで、のび太のママはちっちゃな鳥かごのようなものを持って廊下を歩いて来る。


じつはこれ、鳥かごではなくて、ネズミを捕獲するために作られた「ネズミ捕り器」なのだ。


どのように使うのかというと、ケージの中にエサを入れて、ネズミが出そうな場所に置いておく。


そしてケージの中にネズミが入ると、入り口のトラップから出られなくなる仕組みになっているのだ。


野良猫を保護する時に使う捕獲器と同じような仕組みといえば理解してもらえるだろうか。


で、この「ネズミ捕り器」だが、当時は商店街の金物屋さんや雑貨屋さんなどで普通に売られていた。


うちではネズミなんて出たことがなかったので、「こんなの誰が買うんだろうなぁ」といつも不思議に思っていたのを覚えている・・・・・・。


で、問題はこの「ネズミ捕り器」でネズミを捕獲した後なのだ。


ゴキブリホイホイなら生ごみと一緒にゴミ袋に入れて、ゴミの日にそのまま出してしまえばいいのだが、ネズミの場合はそうもいかない。


それにわざわざ買って来たネズミ捕り器を、たった1回使っただけで、捨ててしまったらもったいないし、何よりも割に合わないだろう。


かといって、捕獲したネズミを屋外へ放してしまったら、同じことを延々と繰り返すだけである・・・・・・。


では、どのようにして、ネズミを処分していたのだろうか。


当時はどこの家にも、子供がすっぽり入れるぐらいの、蓋つきの大きなポリバケツがあった。


本来は生ごみを入れておくための容器だが、これに水を張って置き、ネズミを捕獲した後は、ここにネズミ捕り器ごとネズミを沈めて、蓋をして置いておいたのである。


「ネズミ捕り器」に付いていた解説には、「バケツの水に沈めて蓋をして3分待つ」と書かれていたそうである。


なんだかカップラーメンを作る時の解説文のようだが、3分待って蓋を開けても、中から出て来るのはネズミの溺死体だけである。


そして死んだネズミは生ごみとして廃棄され、「ネズミ捕り器」は洗って乾かして何度でも使えるという訳だ。


当時はそれが当たり前の日常だったので、きっとなんとも思わなかったのだろうが、いま考えると「昭和ってすごい時代だったんだな~」と、ちょっと引いてしまっている自分がいる・・・・・・。


2022年11月19日 (土)

みかんの食べ過ぎで手が黄色くなる話

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▲昭和の頃、食卓の真ん中には、竹で編まれたカゴに入れられて、山盛りのみかんが置かれているのが定番の光景だった・・・・・・。

いま考えると昭和の子供は馬鹿みたいにみかんをたくさん食べていた。


周囲の大人も、「みかんを食べておけば風邪を引かない」とか、「みかんはビタミンCが豊富で体にいいから食べておけ」などと、とにかくやたらと子供にみかんを食べることを勧めていた。


だから当時はどこの家へ行っても、食卓の真ん中には、竹で編まれたカゴに入れられた、山盛りのみかんが常に置かれていたものである。


そういえば最近は、食卓の上にみかんが置かれている光景をあまり見なくなった気がする・・・・・・。


昭和の頃、冬場のみかんは箱買いが主流だった。


当時は夕食後にテレビを見ながら、家族でみかんを食べる家が多かったので、八百屋さんでみかんを一山買って来たぐらいでは、あっという間になくなってしまっていたからだ。


当時の八百屋は無料でその日のうちに配達もしてくれていたので、みかんを箱で買っても家まで持って来てくれたのだ。


うちでは届けてもらったみかん箱は、新聞紙をかぶせて縁側の角の方に置いていた。


家の中は暖房で暖かいので、こうして外に置いておいた方が、みかんが痛まなかったのである。


また、冬場にこのようにみかん箱を外に出しておくと、個人的にちょっと嬉しいこともあった。


いったい何が嬉しかったのかと言うと、みかんが自然に冷凍みかんになっていることがあったのだ。


冷凍といっても、カチンカチンに凍ってしまうという訳ではなくて、「適度に凍っていた」のである。


冷凍庫でみかんを冷凍すると、皮もむけないほどカチンカチンになってしまい、食べるには少し融けるのを待たなければならない。


ところがみかん箱を外に出しておくと、見た目は凍っているようには見えないのだが、みかんをむいて一口食べてみると、果肉が半凍りになっていて、シャクシャクという食感がなんとも心地よく感じられた。


ちょうどシャーベットとかき氷の中間ぐらいの食感と言えば、分かりやすいかもしれない。


で、当時の私は暖房の入った暖かい部屋で、この半冷凍のみかんを食べることにちょっとした幸せを感じていたのである。


ちなみに半冷凍みかんが出来るのは、みかん箱の上部にあるみかんだけで、箱の中間あたりのみかんからは、もう凍ってはいなくて、「非常によく冷えたみかん」で止まっていた。


そんな訳で私が家で食べていたみかんは、冷え冷えの冷凍寸前のみかんだったので、一度にたくさん食べると、体が冷えて寒くなってしまうこともあって、一回に食べる量はせいぜい2~3個だったと思う。


しかし、こんな保存の仕方をしていないお宅では、常温のみかんを食べていたので、当時は一度に「6個食べた」とか「10個食べた」と自慢している子供がたくさんいたものだ。


別に一度にたくさんのみかんを食べても、偉くもなんともないのだが、前述のように当時は家でも学校でも、大人は子供にみかんを食べることを勧めていたので、みかんをたくさん食べることで、大人に認めてもらえるとでも思っていたのかもしれない・・・・・・。


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▲当時はみかんの白い綿のような部分をきれいに全部取り除いて、つるっつるにして食べている人がたくさんいた。後になって、「この部分にはたくさん栄養が含まれているので、そのまま取り除かずに、果肉が包まれている袋ごと食べましょう」といわれて衝撃を受けたものだ・・・・・・。

ところがみかんは毎日たくさん食べていると、次第に手や身体が黄色くなって来ることがあった。


最初のうちは、「あれ?なんかあいつの手、嫌に黄色っぽくないか?」という程度なのだが、症状が進むと、黄色みがさらに増し、なんだか温かみのない、人形の手のような印象になって来るのだ。


実際にその様子を目の当たりにすると、かなり気持ちが悪く、そのうちに彼は本当に人形になって、動かなくなってしまうのではないかという気がして来る。


マネキンの手の方がよほど人間らしい手をしているといえよう。


この頃になると、本人も周りの大人も、「明らかにおかしい」ことに気付き始め、慌てて病院へ行くことになるのだが、そこで告げられるのは「柑皮症」で、単純にみかんの食べ過ぎによる症状なのである。


で、柑皮症は特別これと言って治療などは必要がなく、放って置けばそのうち元に戻るとのことだった。


ただ、それにはみかんを食べる量を少しセーブしなければならなかった。


ちなみに1日に食べるみかんの適量は、一般的な温州みかんなら2個程度とのことだった。


そりゃあ、一度に10個も食べていたら、身体がみかんに支配されたっておかしくはあるまい。


そして学校で柑皮症の手を目撃されてしまうと、彼はその翌日からまず間違いなく、「みかん人間」とか「オレンジマン」というあだ名を付けられて、しばらくの間、「みかんと人間のハーフ」として過ごさなければならないのである・・・・・・。


ところで当時、「医者の忠告を無視して、その後もみかんを大量に食べ続けると、顔が本当にみかんになってしまい、春を迎えるころには、頭が腐って死んでしまう」という恐ろしい噂話があったのだが、あれって今でいう都市伝説だったのだろうか。


確か子供向けの雑誌か、〇〇百科みたいな本に書かれていて、「本当にあった怖い話」として紹介されていたため、みんなすっかり信じていて、みかんはたくさん食べたいが、腐って死にたくはないと本気で悩んでいたものだ。


だから「もう一つ食べよう!」と手にしたみかんを、しばし見つめたまま、カビだらけになって、ぐにゅぐにゅになったみかんと、自分を重ね合わせ、そっとカゴに戻している子供がよくいたそうである・・・・・・。


2022年11月13日 (日)

昭和の乾電池事情

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▲「National」が「Panasonic」に変更になったものの、今も昭和の頃と変わらぬデザインで発売されている乾電池。そう、このデザインの乾電池はまだ売られているのだ。当時は赤い乾電池の「Hi-Top」と、黒い乾電池の「NEO Hi-Top」があった・・・・・・。

昭和の頃、乾電池といってイメージするのは、なぜか決まってナショナルブランドだった。


近所の商店街の電気屋さんがナショナルのお店だったこともあると思うが、当時うちではナショナルの乾電池以外は見たことがなかった。


コンビニやドラッグストアがまだなかった頃は、乾電池はどこでも手軽に買えるものではなくて、電気屋さんに行って買うものだったのだ。


で、私が子供の頃に、家で見慣れていた乾電池のデザインは、ズバリ上の画像のものだった。


これはパナソニックブランドに変更後のものだが、デザインは昔と何ひとつ変わっていない。


当時のものは、乾電池上部のメーカー名の入っている部分が、「National Hi-Top」と書かれている赤い乾電池と、「National NEO Hi-Top」と書かれている黒い乾電池の2種類があった。


ちなみにどちらの乾電池も、上の画像で「単1形」と書かれている部分には、当時のナショナルのロゴマークが、四角い赤地に丸い白抜きのマークで付けられていた。


私が子供の頃には、すでにどちらの乾電池も売られていたが、赤い乾電池の「Hi-Top」の方が先行して発売されていて、黒い乾電池の「NEO Hi-Top」は、「世界最高寿命の乾電池」と謳われて、その数年後に発売になったのだそうだ・・・・・・。


そして1990年代に入ると、どちらの乾電池も、「National NEO」というブランドに統一されることになった。


で、これがパナソニックブランドに変更後も引き継がれたという訳だ。


私は子供の頃からこのデザインに慣れ親しんで来たせいか、乾電池と言って思い浮かべるのは、未だに上の画像のデザインだ。


最近各社から発売になっている乾電池はどれも金ピカで個性がなくていけない・・・・・・。


ところで上の画像の乾電池は、ずっしりと重たい単1形だが、昭和の頃はこの単1形や、これより一回り小さい単2形の乾電池の出番が多かった。


懐中電灯や石油ストーブに入れる乾電池は決まって単1形だったし、目覚まし時計やラジカセには単2形を使用していた。


だから昭和の頃の懐中電灯や目覚まし時計は、サイズの割にやたらと重たかったものである。


懐中電灯なんてボディも金属製だったので、乾電池を2本入れると、子供にはまるで鉄アレイのごとく重たくて、ちょっとした筋トレになっていたのではないかと思えるほどだった・・・・・・。


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▲単1形の乾電池はとにかく大きく重かった。現在では単3乾電池を使用する機器が増えたが、昭和の頃はこの単1形と、これより一回り小さい単2形の出番が多かったのだ・・・・・・。

ところでこれまでお話して来たNationalブランドの赤と黒の乾電池は「マンガン乾電池」と呼ばれていた。


そして現在我々が日常で何気なく使用している乾電池は「アルカリ乾電池」が主になる。


「マンガン乾電池」の特徴としては、間隔を開けて使用することで、電圧が回復して長持ちすることにある。


例えば懐中電灯や様々な機器のリモコンなど、ずっと電流を流しておく必要のないものに向いている。


一方の「アルカリ乾電池」は、マンガン乾電池よりも大きな電流を流せるようになり、電池を使うおもちゃやデジタルカメラなどに向いている。


で、このアルカリ乾電池が出て来る以前は、マンガン乾電池が赤と黒に分かれていて、赤マンガンは電力を一気に必要としないものに、黒マンガンは電力を一気に必要とするものに使用するとよいとされていた。


具体的に言うなら、リモコンや懐中電灯、時計などには赤マンガン、ラジコンやストーブの点火など、パワーを必要とするものには、黒マンガンを使用することを推奨していた訳だ。


とはいうものの、当時わたしは子供だったので、そんなこととはつゆ知らず、ただの色違いぐらいにしか思っていなかった。


そう言われてみれば、家の懐中電灯の中には、決まって赤い乾電池が入っていたし、石油ストーブには黒い乾電池が入っていた。


両親がそのことを知っていたのかどうかは定かではないが、当時うちには赤と黒の2色の乾電池が、常にストックされていたことは間違いない。


ちなみに現在でも「マンガン乾電池」は売られているので、その用途によって、「アルカリ乾電池」と使い分けるのが正しい使い方といえるだろう・・・・・・。


ところで乾電池と言えば、昭和の頃に電気屋さんの前などに、乾電池の自動販売機が設置されていたのを覚えているだろうか。


ナショナルの電気屋さんの前には、ナショナルの乾電池の自動販売機、東芝の電気屋さんの前には東芝の乾電池の自動販売機が設置されていた。


乾電池は店の中でも売られているのに、なぜ自動販売機が店の前に置かれていたのか、いま考えるとちょっと疑問である。


どうせ自動販売機を設置するのなら、店から離れた場所に設置しなければ意味がないではないか。


しかし、そのような場所で乾電池の自動販売機を見かけたことは、結局のところ一度もなかったように思う・・・・・・。


2022年11月 1日 (火)

ビンジュースの自動販売機

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▲じつはビンジュースの自動販売機は、数は少ないが現在でも見ることが出来る。しかし、昭和の頃に見られたものとは構造が変わって、ボタンを押してジュースを選び、買ったジュースは「穴から引っこ抜く」のではなく、横からゴロゴロッと転がって出て来るようになった・・・・・・。

私が小学生の頃は、まだぎりぎりビンジュースの自動販売機が生き残っていた。


とはいうものの、歩道脇に立つ自動販売機は、もうすっかり缶入りのものに切り替わっていて、ビンジュースの自動販売機は、お菓子屋さんや駄菓子屋さんの前に、僅かに残っているぐらいだった。


現在ではビン入りのジュースなんて、居酒屋さんにでも行かなければ、お目にかかれなくなってしまったが、昭和40年代までは、店で売られているジュースはビン入りが主流で、昭和50年代に入って缶が主流になるまでは、自動販売機もビン売りだったのである。


ビンジュースの自動販売機には、いくつかのタイプがあったが、共通して言えることは、まず最初にお金を投入して、細長い透明窓の扉を開けて、選んだ商品を丸い穴から引っこ抜いて取り出すことだった。


ジュースのビンは王冠側を手前に寝かせた状態で入っていて、丸い穴から先端だけが見えていたのだ。


透明窓の扉は自動販売機の左側に縦向きに設置されているものが多かったが、自動販売機の下の方に横向きに設置されているものもあった。


これについては現在の自動販売機の商品取り出し口と位置が全くいっしょである。


ただし商品は現在のように上からガシャンと落ちて来る訳ではなくて、やはり穴から引っこ抜いて取り出すようになっていた。


ちなみにビンジュースの自動販売機には、構造上サンプルを入れるスペースがなかったので、いま見たらちょっと違和感があると思う。


ただ、商品取り出し口が自動販売機の下部に横向きに設置されていたものに関しては、上部にスペースがあり現在のようにサンプルが入れられていたようである。


ちなみに先程からビンジュースの自動販売機は、「穴から引っこ抜いて取り出す」と書いているのだが、これはビンジュースの自動販売機には、そもそも商品を選ぶためのボタンがなかったからだ。


だからお金を入れた後は、穴から見えている王冠の柄を確認して、自分の欲しい商品を引っこ抜くのである。


このためビンジュースの自動販売機は、全ての商品が同じ値段になっていた。


きっと、現在の自動販売機しか見たことのない人は、お金を入れた後に、どうやって商品を買うのか分からず、困惑することになると思う・・・・・・。


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▲ビンジュースの自動販売機には栓抜きが設置されている。ビンの王冠部分をここに引っ掛けてクイッと栓を抜くのだがコツが分かるまではちょっと戸惑うかもしれない・・・・・・。

当たり前の話だが、ビンのジュースは買った後に、栓抜きで栓を抜かなければ飲むことは出来ない。


「これでは自動販売機でジュースを買っても、その場で飲むことが出来ないじゃないか」と思われるかもしれない。


しかし、そんな心配は一切無用で、ビンジュースの自動販売機には、栓抜きがちゃんと設置されていた。


栓抜きと言っても、家庭で使うような栓抜きがぶら下げてあったという訳ではなくて、自動販売機にあるくぼみが栓抜きになっていたのだ。


そして抜いた栓は自動販売機の中の専用のスペースに落ちるようになっていた。


ただ、自動販売機の栓抜きにはちょっとしたコツがあって、子供にはなかなか上手く使いこなすことが出来なかった。


だからなんとか栓を開けることが出来ても、ドバドバとジュースをこぼしてしまって、いざ飲もうと思ったら、半分くらいしか残っていなかったなんてこともよくあった。


だからお菓子屋や駄菓子屋のおばちゃんは、子供が自動販売機でジュースを買おうとしているのを見つけると、わざわざ出て来てくれて、栓を抜く時は手をそえてサポートしてくれていた。


そもそもお菓子屋や駄菓子屋には、店内の冷蔵庫にも冷えたビンジュースが入っていて、それを買えばおばちゃんが栓抜きでプシュッと栓を抜いて渡してくれたのだ。


その方がよっぽど手間やリスクが少なくて済むのに、子供の頃はどういう訳か自動販売機でジュースを買いたかったのである。


で、自動販売機でビンジュースを買った後は、その場で飲んでしまうことがほとんどだった。


というのも、私が小学生の頃は道端の自動販売機は、もうほとんどが缶入りに切り替わっていたので、ビンを持ち歩いていると、捨てる場所がなかったのである。


ビンジュースの自動販売機の脇には、ビンジュースが納品される時に入っているプラスチックの運搬用ケースが置いてあって、飲み終わったジュースのビンはそこに返すようになっていた。


ケースにビンがいっぱいで入れる所がない時は、店の中へ持って行けばおばちゃんが回収してくれた。


でも、結局店の中まで持って行くのなら、初めから店の冷蔵庫に入っているビンジュースを買って、おばちゃんに栓を抜いてもらい、その場で飲んで、ビンを返して来た方がよっぽど合理的だったよなぁと、今さらながら思ったりもする。


その後、お菓子を買ったりもしていたのだから・・・・・・。

2022年9月20日 (火)

ハエ取り紙

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▲この筒の中にハエを捕らえる粘着シートが、くるくるとねじれた状態で入っていて、それを全部引き出すと1メートル近くある。ちなみに筒に被せられている紙は受け皿になっていて、高温で粘着剤が溶けた場合に下に垂れて来るのを防いでくれる。だからこの紙は傘のように広げて使わないとなんの意味もない・・・・・・。

私が子供の頃、近所の商店街では、天井からハエ取り紙をぶら下げてある光景がよく見られた。


ハエ取り紙をぶら下げているのは、主に食品を扱っている店と飲食店だった。


ところで、ハエ取り紙なんて言っても、今となっては意味が通じない人の方が多いのだろうか。


分からない人のために一応説明しておくと、ハエ取り紙というのは、ハエを捕まえるためのトラップで、分かりやすくいうなら、ゴキブリホイホイのハエバージョンと思ってもらえればよいと思う。


粘着性のあるシートにハエをおびき寄せ、捕獲する仕組みになっているのだ。


ただ、ゴキブリホイホイと違うのは、粘着シートの部分がカバーも何もなくむき出しになっていることだ・・・・・・。


私が当時よく見かけたのは、リボン状の粘着シートを天井からぶら下げるタイプのものだった。


私はハエ取り紙なんて、食品を売る店か飲食店でしか見たことがなかったので、幼い頃はそれをなんのためにぶら下げているのか、全然意味が分かっていなかった。


だから当時は何の疑問も抱かずに、「店の飾りなんだろう」と勝手にそう理解していた。


ハエ取り紙は、昔は一般家庭でも普通に使われていたらしいのだが、私が子供の頃には、もう家庭で見かけることはほとんどなくなっていた。


ただ、田舎の親戚の家へ泊りに行った時に、ハエ取り紙が部屋の天井からぶら下がっていて、「店でもないのになんで?」と驚いたことを覚えている・・・・・・。


ところでこのハエ取り紙だが、最初はリボン状ではなくて、卓上に置いて使うシートタイプだったのだそうだ。


このタイプのものは、なんと1923(大正12)年から発売されていたというから驚きである。


そしてその後、1930(昭和5)年になって、リボン状のハエ取り紙が発売されたのだという。


これはハエの種類に対応した商品とのことで、平らな場所に止まる習性のハエにはシートタイプ、高い場所に止まる習性のハエにはリボンタイプと使い分けるのが正しい使い方のようだ。


しかし、私はシート状のものについては全く見た記憶がない。


ちなみに現在ではあまり見かけなくなってしまったハエ取り紙だが、絶滅してしまったという訳ではなくて、現在でもちゃんと売られている・・・・・・。


ところで私が子供の頃によく見かけた、天井から吊るされていたリボン状のハエ取り紙だが、未使用のものは厚紙で出来た、手のひらサイズの小さな筒に収まっていた。


そしてこれを使用する時には、蓋になっている丸い紙といっしょに、先端の紐をグイッと引っ張ると、クルクルとねじれた状態で筒の中に収納されていた茶色いリボンが、スーッと引き出されて来る仕組みになっていた。


で、このリボンだが予想以上に長くて、全部引き出せば1メートル近くはあったと思う。
もちろん全部引き出さなくても使用は可能だ・・・・・・。


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▲パッケージ裏面の解説文。「人やペットに触れない所へ吊ってください」とはっきりと書かれているのだが、当時はハエ取り紙にくっついている子供がよくいたものである・・・・・・。

で、このリボンの部分にはハエをくっつけるためのネバネバが塗ってあるので、筒から引き出した後は決して触れてはいけない。


とは言うものの、当時はこのハエ取り紙のトラップに引っ掛かっている子供がよくいたものだ。


ハエ取り紙は天井から吊るして使用するので、普通なら人にくっつくようなことはない。


ところが子供がよく行く駄菓子屋やお菓子屋は、どういう訳か天井が低い所が多くて、ハエ取り紙をいっぱいまで引き出すと、頭や顔の高さまでリボンが届いてしまっていた。


お菓子選びに夢中になっていると、子供というのは周りが見えなくなるもので、本来のターゲットのハエよりも簡単に、ハエ取り紙にあっさりと捕獲されてしまうのである。


そしてハエ取り紙がくっつくのは、まず間違いなく髪の毛で、坊主頭でもない限り、ネバネバのハエ取り紙をその場で引きはがすのは至難の業だった。


くっついたのが男の子だった場合は、店のおばちゃんはハサミを持って来て、「取れないから、少し髪の毛を切っちゃうからね」と言って、髪の毛をバッサリと切って、ハエ取り紙を取り外していた。


頭の左側だけが絶壁のようになり、「全然少しじゃないじゃないか」と思っても後の祭りである。


それに自分が悪いのだから文句も言えない・・・・・・。


しかし、女の子の場合はそうもいかず、ハエ取り紙そのものを天井から外して、くっついた部分を髪に残したまま、リボンだけをハサミでカットしていた。


おばちゃんが言うには、「あとは家に帰ってシャンプーをすれば、少しずつはがれて行くから大丈夫」とのことだった。


しかし、頭にベロ~ンとハエ取り紙をぶら下げたまま、近所の通りを歩いて帰るのはかなり恥ずかしい。


きっと彼女は、「誰か知っている人に出会ったらどうしよう・・・」と、いつもより縮こまって歩いていたに違いない。


そしていつもバカにしている、ハゲのA君のことを、この時ほど羨ましく思ったことはないだろう・・・・・・。

2022年4月 5日 (火)

昭和の彫刻刀

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▲私が小学生の頃に使っていた彫刻刀。刃がプラプラになって取れてしまい、いったい何回買い替えたかしれない。ちなみにこれは普段使っていたセットではなく、丸刃が壊れたため買い足したものだ・・・・・・。

私が小学生の頃には、図工の授業で彫刻刀を使うと、誤って自分の手を突き刺して、血まみれになっている生徒が、毎回必ず数人はいたものである。


当時小学生向けに売られていた彫刻刀は、今のものとは違って、特別子供向けに安全に作られている製品という訳ではなかった。


そしてその見た目は、見るからに「ザ・刃物」で、素人目にはプロの人が使う道具と、何ら変わりがないように見えた。


そんな普段使い慣れていない「ザ・刃物」を、素人の小学生に持たせて、「木を彫る」などという、ふつう日常生活では絶対に行わないであろう作業をやらせたら、血を見ることになるのは、どう考えても明らかであった・・・・・・。


このため担任の先生は、彫刻刀は刃物で危険であること、彫刻刀の刃の方向には絶対に手を置かないこと、よそ見をしたり、人と話をしながら使ってはいけないこと、また、絶対に人に向けてはいけないことなどを、実際に作業を始める前に、口が酸っぱくなるほど言って聞かせていた。


そのおかげか、授業で彫刻刀を使う時には、いつもはガヤガヤしている教室が、気持ちが悪いほど「シーン」と静まり返っていて、「カリカリカリカリ」という、木を彫る音だけが、静まり返った教室に、ただ、ただ、鳴り響いていた。


そしてそれは、誰もが木を彫ることだけに集中して、自分の世界に入り込んでいる証拠でもあった。


ところが事故が起きるのは、意外にもそんな時だった・・・・・・。


あまりに集中しすぎて頭が回らなくなり、初めに先生に言われていた、「彫刻刀の刃の方向には絶対に手を置かないこと」をすっかり忘れ、手元が狂って、自分の手をプスリとやってしまうのである。


本来は木の板などに彫り物をする場合、彫刻刀を使う方向には手を持って行かず、板の方を回転させながら、作業を進めて行かなくてはならない。


そうすれば、たとえ手元が狂ったとしても、自分の手を傷つけるなんてことは絶対に起こらないのだ。


ところが集中して作業に没頭していると、早く彫り進めたいという一心で、板の前方に手を添えて、それを回転させる前に、うっかり彫刻刀の刃を先に動かしてしまうのである。


気持ちが先行するとは正にこのことである。


そんな訳で当時は彫刻刀で怪我をする生徒がたくさんいたので、みんな万が一に備えて、彫刻刀のケースには、絆創膏の束がごっそりと入っていたものである・・・・・・。


最初の頃は彫刻刀で指を切って、血がドバドバ出て来たりすると、みんな大騒ぎで、すぐに保健係に付き添われて保健室に行き、処置をしてもらっていた。


ところが慣れというのは恐ろしいもので、彫刻刀を使い慣れて来ると、手元が狂って、ちょっと指を切ったぐらいでは誰も動じなくなり、自分でティッシュで止血して、あらかじめ準備してあった絆創膏を貼って、すぐに作業に戻るようになって行った。


もはや気持ちだけは職人の域と言えよう。


ただ、しょっちゅう彫刻刀で手を切っていたので、彫刻刀の柄の部分には、自らの血の赤黒い跡が点々と付いていて、なんとも不気味な様相を呈していた。


当時の彫刻刀の柄は木製だったので、気持ちがいいほど血を吸ってくれたのである。


もし、途中で所有者が変わるようなことがあったら、「血を欲しがる彫刻刀」などという、おぞましい都市伝説が生まれていたかもしれない・・・・・・。


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▲当時、私が壊した彫刻刀の数々。刃が取れてしまったものを、父が工具を使って直してくれていた。丸刃だけが3本もあるが、じつは壊れた丸刃はこれだけではない・・・・・・。

当時彫刻刀を使っていて納得がいかなかったのは、使い始めてたいして時間が経っていないのにすぐに壊れることだった。


彫刻刀というのは、形状の違う刃のものが5~6本セットになっているのだが、頻繁に使用するものと、全く使わないものにきれいに分かれた。


私が最もよく使っていたのは、丸刀と呼ばれる刃が半円状のもので、ほとんどこれだけで彫り進めていたと言っても過言ではなかった。


このため丸刀はすぐに刃の部分がグラグラして来て、そのうちに柄からすっぽり取れてしまっていた。


だから丸刀だけを何度も買い替えることになるのだが、丸刀を壊して買い替えていたのは、どうやら私だけではなかったらしく、バラ売りの丸刀は、品切れになっていることも少なくなかった。


当時彫刻刀は近所の商店街にあった、文房具屋さんで買うことが出来たのだが、いつ入荷するとも知れない丸刀を待っている訳にもいかず、そういう時はやむを得ず、セットのものをそっくり買い替える羽目になった。


ところがそのセットの彫刻刀も品切れになっていることも少なくなく、そんな時のために、うちでは私が壊した彫刻刀を、父が工具を駆使して、しょっちゅう補修していた。


新品の彫刻刀が入荷するまでそれでなんとか凌ごうという訳である。


それにしても、いくら丸刀ばかり使っていたからといっても、子供の力なんてたかが知れている。


普通に考えたら、そんなに簡単に壊れるなんて、どう考えてもおかしい。


私は丸刀を壊して親に「またか~!」と言われるたびに、これは彫刻刀を買い替えさせるための、メーカーの策略に違いないと密かに思っていたものだ。


当時は今とは比較にならないくらい、子供の数が多かったので、私のように彫刻刀を頻繁に壊す子供がたくさんいたら、きっとメーカーはガッポリ儲けていたに違いないのだ・・・・・・。


そんな彫刻刀も現在ではかなりイメージが変わった。


柄はプラスチック製になり、手が滑らないように、カラフルなラバーの滑り止めが付けられた。


そして刃の部分にはスライド式の安全カバーまで付いている。


正に至れり尽くせりで、ここまでしてもらって怪我をしたら申し訳ないぐらいである。


更に私が子供の頃は木箱や厚紙の箱だったケースも、ファスナー式の専用ケースに入ったものや、プラスチック製のポータブルCDプレーヤーのような形状のものまであって、昭和レトロな彫刻刀しか知らない人間には、ケースの外見からでは、いったいそこに何が入っているのか見当もつかない。


「時代は変わったのだな~」とつくづく思うと同時に、遠い目をする瞬間である・・・・・・。

2022年3月24日 (木)

公衆電話がカラフルだった時代

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▲公衆電話機が緑色になったのは、1982(昭和57)年にテレホンカードが使える「カード式公衆電話機」が登場してからだった・・・・・・。

私が子供の頃、公衆電話はとてもカラフルだった。


今では想像もつかないと思うが、赤、青、黄、ピンクなど、じつに様々な色の公衆電話を、町で見かけることが出来たのだ。


当時は全く気にもしていなかったが、じつはこれは公衆電話を用途ごとに色分けしていた結果、そうなっていたということらしい・・・・・・。


まず、電話ボックスに入っている公衆電話は今と違って青い色をしていた。


「え、公衆電話って緑色じゃないの?」と思われるかたも少なくないだろうが、1982(昭和57)年にテレホンカードが利用出来る、「カード式公衆電話機」が登場するまでは、電話ボックス用の公衆電話機は青い色をしていたのだ。


青い色の公衆電話機は10円硬貨専用で、一度に硬貨を10枚まで投入することが出来たという。


そうは言っても、子供の頃は公衆電話なんて使わなかったので、残念ながら私にはそこまでの記憶はない。


しかし、10円硬貨しか使えないと、遠距離通話の際にとても不便だったため、100円硬貨も使用出来る公衆電話機も別に設置されていた。


この「100円公衆電話機」は、青い公衆電話機と一目で区別出来るように黄色い色をしていた。


これは今考えると、青い公衆電話機以上に違和感があるのだが、当時はそれが当たり前の光景だったのだ。


また、黄色の公衆電話機は、100円硬貨と10円硬貨を両方使うことが出来たが、100円硬貨を使用した際に、料金が100円に満たなくても、100円はそのまま収納されてしまい、お釣りは出て来なかった。


これについては、納得出来ないという人が多かったようだ・・・・・・。


また、1970年代に見られた公衆電話機は、まだほとんどのものがダイヤル式で、黒電話に付いていたダイヤルが、公衆電話機にもそのまま付けられているような印象だった。


これも若い人たちには、ちょっと想像し難い光景なのかもしれない・・・・・・。


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▲公衆電話ボックスにはこんな簡易タイプもある。電話機の入っているボックスの下には箱があって、ここに電話帳が収納されている・・・・・・。

これまでお話して来たのは、電話ボックスの公衆電話機についてだが、じつは昭和の頃、公衆電話機は個人商店の店先にも置かれていた。


このような公衆電話機は真っ赤なボディをしていて、通称「赤電話」とか「赤だるま」と呼ばれていた。


電話ボックスに入っている公衆電話機は、のっぺりとした長方形の薄い箱型だったが、「赤電話」は店先に置かれることが前提になっていたため、ずっしりとした「だるま」のような肉厚のボディをしていた。


これが「赤だるま」と呼ばれた由縁である。


「赤電話」は正式には「委託公衆電話機」といい、電気通信事業者が商店の店先などに設置させてもらい、店主にその管理を委託している公衆電話機だった。


当時「赤電話」は、商店街や町のあちこちで見られたタバコ屋さんの店先に必ず置かれていた。


タバコ屋さんというのは、言うまでもなく、タバコの専門店のことで、せまい店先で対面でタバコの販売を行っていた。


店主とはガラスの引き戸越しにやり取りをするのだが、その引き戸の横に赤電話は必ず置かれていて、道行く人が自由に使えるようになっていたのだ。


余談だがどういう訳か、当時タバコ屋にはネコが必ずいて、別にタバコには用のない人も、ネコ目当てにタバコ屋さんにやって来ては、世間話をしながらネコを撫でさせてもらっていた。


小学生が学校帰りや、お父さんのお使いでタバコを買いに来た時に、ネコを撫でさせてもらっている光景も、当時はよく見かけたものである。


ちなみに当時は子供でもタバコは普通に買えたので、父親に頼まれてタバコを買いに来る子供がよくいたのだ。


そんなタバコ屋さんの店先に置かれていた赤電話だが、商店の営業時間終了後は店の中にしまわれてしまい、使うことは出来なかった。


電話ボックスの公衆電話機とは違って、赤電話には「営業時間」があったのである・・・・・・。


喫茶店や食堂、病院などには、ピンク色の公衆電話機が置かれていて、通称「ピンク電話」と呼ばれていた。


「ピンク電話」と言ってもHな電話のことではない。


ピンク電話も形は赤電話といっしょで、台の上に置いて使用するため、大きなだるまのような形をしていた。


喫茶店や食堂ではレジ横に置かれていることが多かった。


ピンク電話は正式には、「特殊簡易公衆電話」といい、厳密な意味では公衆電話ではなかったようだ。


ピンク電話は家庭用の一般電話と同様に、加入契約を結んで設置された加入電話で、これを公衆電話と同じように、客が硬貨を使用して利用出来るようにしたものだった。


われわれ客の側からすれば、「公衆電話と何が違うの?」という感じなのだが、店の人が利用する時は、専用の鍵を差し込んで、切り替えることで、普通の加入電話として利用することが出来たらしい。


とは言うものの、客の側からしてみれば、そんなことは知る由もなく、当時は普通に公衆電話だと思って利用していたのだが、ピンク電話にそんな秘密があったなんて、今更ながらちょっと驚きである・・・・・・。


電話ボックスの青電話や黄色電話は、プッシュ式のものも見られたと思うのだが、赤電話やピンク電話は、結局最後までダイヤル式だったイメージが、私にはどうも強く残っている。


公衆電話機が完全にプッシュ式に切り替わったのは、1982(昭和57)年にテレホンカードが使えるようになった、「カード式公衆電話機」が出て来てからで、この時から公衆電話機の色のイメージは緑色に変化して行ったのである。


そしてそれと同時に、公衆電話機がカラフルだった時代は幕を閉じ、人々の記憶からじょじょに忘れ去られて行くことになるのだった・・・・・・。

2022年2月10日 (木)

ファミコンブームと「昭和の商店街」

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▲「ドラゴンクエストⅢ」は社会現象を巻き起こすほどの大ブームとなった・・・・・・。

家庭用ゲーム機の先駆けとなった、ファミリーコンピューター(通称ファミコン)が発売になったのは、1983(昭和58)年7月15日のことだった。


当時はまだ町のあちこちに個人経営の小さなおもちゃ屋さんがあって、ファミコンは主にそのようなおもちゃ屋さんで売られていた。


じつはこのファミコン、本格的なブーム到来の前に、一時、ある理由で店頭から姿を消していたことがあった・・・・・・。


ファミコン用ソフトの「ベースボール」は、1983(昭和58)年12月7日に、任天堂から発売された野球ゲームだった。


そしてこの「ベースボール」は、発売直後から、ゲームをプレイしていると、なぜかボールや白線が画面から消える不具合がしばしば報告されていた。


じつはこれ、調査をしてみると、ソフト側の問題ではなく、ハード側の問題であることが判明する。


ファミコンは画像処理に負担がかかると、グラフィックチップの温度が上がり、「熱暴走」を起こすことが分かったのだ。


そしてこの問題を解決するためには、グラフィックチップの差し替えを行う必要があった。


結果的に任天堂は、かき入れ時のクリスマス商戦を前に、ファミコンの出荷停止に踏み切ることになる。


ところがこの問題を解決するためには、すでに出荷され、おもちゃ屋さんの店頭に並んでいるファミコンも回収する必要があったのだ。


このためファミコンは、1983(昭和58)年の12月から年明けにかけて、店頭からきれいさっぱり姿を消してしまっていたのである。


更にこのとき任天堂は、すでにファミコンを購入済みだった子供たちに対しても、全て無料でグラフィックチップの交換を行ったといわれている。


いま思うと、このような任天堂の誠実な対応が、後のファミコンブームに繋がって行ったのではないだろうか・・・・・・。


このような理由で、町のおもちゃ屋さんから一時姿を消していたファミコンなのだが、当時はSNSはおろか、インターネットも普及していない時代ということもあって、子供たちは「なぜファミコンが品切れになっているのか?」ということについては、あまりよく理解していなかったように思う。


このため子供たちは、おもちゃ屋さんを次々とはしごして、ファミコン探しに奔走していたのである。


しかし、当時はどこのおもちゃ屋さんに行っても、店頭の目立つ場所に、「ファミコンは品切れです」という手書きの貼り紙が、まるで当たり前のように貼られていたのを覚えている・・・・・・。


そんな中、入荷は未定ながら、当時はあまり一般的ではなかった、「予約」をしてくれるおもちゃ屋さんも中にはあった。


当時は予約といっても、薄汚い大学ノートに、住所、氏名、電話番号を書かされて、「じゃあ、入荷したら連絡するから」とぶっきらぼうに言われて、控えも何もくれない所がほとんどだった。


しかも、そのノートを見ると、すでに予約をしている子供たちの名前がびっしりと並んでいて、「こりゃあ、入荷しても数がたりないんじゃないのか?」と心配になるほどだった。


予約をしてくれるおもちゃ屋さんの情報は、口コミであっという間に広まり、子供たちが殺到していたのだ。


いま思うと、SNSやインターネットもない時代に、あの情報伝搬の速さは驚異的だったと思う・・・・・・。


と、まあそんな状況だったので、当時は学校が終わったら、すでにファミコンを持っている友達の家へ、みんなで遊びに行くというのが定番になっていた。


きっと、彼のお母さんは、毎日大勢の子供が家に押しかけて来て、さぞかし大変だったろうと思う・・・・・・。


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▲ファミリースタジアムは毎年最新版が発売になるほど人気の野球ゲームだった・・・・・・。

そんなファミコンも、それから数ヶ月後には、予約なしでも買えるほどになって行った。


クリスマスプレゼントやお正月のお年玉で、ファミコン購入を予定していた子供たちにとっては、数ヶ月間のおあずけをくらっていたことになる訳だ。


だからお店でようやくファミコンを手に取ることが出来た時は、その喜びもひとしおだった。


こうしてようやく買えたファミコンを、大事そうに抱えて家に帰った子供たちだが、ファミコンは買った後も何かと大変であった。


ファミコンを購入してまずすることと言えばテレビとの接続である。


現在のゲーム機とテレビだったら、HDMI端子にケーブルを差し込むだけで、簡単に接続が出来るのだが、当時のブラウン管テレビには、そんな便利なものは付いていなかった。


そこで登場するのが、ファミコン本体に同梱されている「RFスイッチ」なのだ。


RFスイッチはテレビのアンテナ入力端子と、ファミコン本体を接続するために用いるもので、これによってファミコンからの映像と音声を、空きチャンネルの2チャンネルへ出力する仕組みになっていた。


そしてこのRFスイッチの接続は、テレビ放送とファミコンの両方を楽しむようにするためには、専門的な知識がないとかなり難しく、ファミコンを繋げたことで、テレビが見られなくなったなんて話を当時はよく聞かされたものである。


そんな訳で当時はファミコンの接続は、町の電気屋さんに頼むお宅が多かった。


だから当時、町の電気屋さんはファミコンの出張接続で大忙しだったのである。


任天堂は「ファミコンはあくまでもおもちゃ」という位置付けだったので、電気屋さんでファミコン本体は売っておらず、ファミコン本体の購入はおもちゃ屋さん、ファミコン本体とテレビの接続は電気屋さんに頼まなくてはならなかったのだ。


いま考えると、同じ商店街の中でうまい具合に連係プレーが行われていたことになる訳だ。


現実に当時はおもちゃ屋さんでファミコンを購入すると、「ファミコンの接続は難しいから、電気屋さんに頼んだ方がいいよ」とアドバイスをしてくれていた。


このようにして、ようやく軌道に乗り始めたファミコンだったのだが、この年のクリスマスに、今度はあまりの人気で出荷が追い付かず、またしても品切れに追い込まれることになる。


そして再びおもちゃ屋さんの店頭には、「ファミコンは品切れです」という、あの見慣れた貼り紙が、ひっそりと復活していたのだった・・・・・・。



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