カテゴリー「変わりゆく町並み」の記事

2025年10月 1日 (水)

サカタのタネガーデンセンター

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▲「サカタのタネガーデンセンター」は、過去に何度かリニューアルがあって、外観がその都度変化して来ている。上の画像は閉店する2023年のもの・・・・・・。

私は子供の頃からずっと、サカタのタネガーデンセンターに、たいへんお世話になって来た。


サカタのタネガーデンセンターは、東急東横線「反町駅」近くにあった大型の園芸店で、いちおう種苗専門店ではあったが、小鳥や金魚、熱帯魚売り場なども充実している、子供にも人気の店だった・・・・・・。


私の父は盆栽を育てることが趣味だったので、サカタのタネガーデンセンターには、苗はもちろん、各種用土や肥料をよく買いに来ていた。


母は草花が好きだったので、季節の草花を買いに来ることが多かった。


一方、私はといえば、生き物が大好きな子供だったので、ペット売り場を見て回るのが最大の目的だった。


また、当時家で飼っていたセキセイインコの餌や、副食を買いに定期的に訪れていた・・・・・・。


小学校の頃は理科の授業で、何か植物を育てるたびに、家でもっと観察してみたくなり、わざわざ種を買いに出掛けたものである。


小学校1年の頃は、理科の授業でアサガオを種から育てて、観察日記をつけさせられるものだが、学校で配られるアサガオの種は、とてもシンプルな花色のものばかりだった。


私はアサガオには、もっとたくさんの品種があることを知っていたので、花弁の縁が白く縁取られる「覆輪」や、絞り模様の花の「絞り咲き」などの種を探すために、種売り場をうろついたりしていたものだった・・・・・・。


で、私が人生で初めて買った花の種は、そのアサガオだったと思うのだが、家に帰って種の袋を開けてとても驚いたのを覚えている。


というのも、私としては、種の袋を開封すると、中から黒々としたアサガオの種が、手の平にバラバラとたくさんこぼれ落ちてくるイメージだったのだが、袋の中から出て来たのは、透明な小さな袋に密封された、たった5~6粒の種だったのだ。


「えっ、たったこれだけ・・・・・・?」とか、「これって、もしかしてぼったくりっていうやつじゃ・・・・・・」と、小学生ながら不安になったりしたものだった・・・・・・。


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▲2023年12月、何気なく立ち寄った店内に「閉店のお知らせ」が告知されていた。東急東横線の反町駅近くで、72年もの間、営業を続けて来たことが分かる・・・・・・。

ところがそんな心配をよそに、種を植えてみれば、なんと全部がきっちりと発芽して、順調に育っていったのだった。


サカタのタネで購入した花の種は、アサガオに限らず、花の写真がプリントされたパッケージの中に、小さな透明な密封袋が入っており、その中に5~6粒の種が入っているというスタイルのものがほとんどだった。


「こんなに少なくて、発芽しなかったらどうするんだろう?」と、毎回のように心配したものだが、不思議なことにどの花の種も、ほとんどが発芽していた。


「やっぱりそこらへんのスーパーで売っている花の種とは違うんだな~」と、何度思ったことかしれない・・・・・・。


ちなみに小学校2年生の時はヒマワリ、3年生の時はヘチマの種を買って育てたのだが、どちらも、ただでさえ狭い庭の、かなりのスペースを占領してしまい、両親からは大ひんしゅくを買ったものだった。


それでもヒマワリは予想以上に大きな花を咲かせてくれたし、ヘチマは大きな実をつけて、大人のすねほどもあるヘチマタワシが何個か収穫出来た。


父はせっかく収穫したのだから、風呂で使おうといっていたのだが、私は苦労して育てたヘチマで身体を洗うなんて、ちょっと考えられず、結局そのまま学習机の棚に飾り、ひとり悦に入っていたのだった・・・・・・。


そんなサカタのタネガーデンセンターだったのだが、2023年12月に突如閉店することになってしまった。


私にとっては、子供の頃の思い出がたくさん詰まった園芸店だったので、その一報を聞いてたいへんショックだった・・・・・・。


サカタのタネガーデンセンターは何度かリニューアルをして、建物の外観がその都度変化して来たのだが、私が一番印象に残っているのは、真っ白いシンプルな2階建ての建物のころで、建物の上部には赤い字で、「サカタのタネ」、緑の字で「ガーデンセンター」と書かれていたのが印象的だった。


確か1980年代までは、その白い建物だったと思う。


そんなサカタのタネガーデンセンターは、いまはもうなくなって、その跡地を通るたびに、何だか子供の頃の思い出を、すっぽりとどこかへ持って行かれたような、複雑な気持ちになるのだった・・・・・・。



2025年9月10日 (水)

晦日祓い

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▲開発に取り残された土手に立てられた「みそかっぱらい」。昭和の頃はよく見かけたものだが、最近は住宅事情が変わったこともあってか、あまり見かけなくなってしまった・・・・・・。

子供の頃は無知だったこともあって、いろいろなものが怖かった。


例えば毎年正月休みの頃になると、近所の道端に突如出現する幣束があげられる。


幣束とは神道で神様に捧げる供え物や、祓いの儀式の際に用いられる道具のことだ。


その見た目は細長い木や竹の棒に、「紙垂(しで)」と呼ばれる特殊な形に切った白い紙を挟んだものといえば、分かってもらえるだろうか・・・・・・。


ただ、近所の道端に出現する幣束は、どういうわけか、とても小さいのである。


どのくらいの大きさなのかというと、柄の部分は割り箸ほどの長さしかなくて、そこに取り付けられている紙垂も、それに見合ったサイズということになる。


子供の頃は、前述のような知識もなかったので、「もしかして、呪いの儀式を行った跡なんじゃないか?」などど思っていた・・・・・・。


で、この幣束なのだが、どのような場所に出現していたのかというと、民家の塀の下に刺してあったり、道端の植え込みの下だったり、駐車場の隅っこだったり、畑の周りだったり、とにかく様々な場所に刺してあった。


子供たちの間では、この幣束を見つけても、じっと見つめてはいけないとか、絶対に触ってはいけないとか、幣束を見つけたら、視界から消えるまで、息を止めていなくてはいけないなどといわれて恐れられていた・・・・・・。


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▲住宅の脇のわずかに残された土の部分に刺してあった「みそかっぱらい」。最近は土が露出している場所が少なく、「みそかっぱらい」を刺す場所を探すのも一苦労のようだ。アスファルトの割れ目に無理矢理差し込まれていた場所もあった・・・・・・。

当時はいまと違って、スマホはおろか、パソコンすら普及していなかったので、「分からないことがあったら気軽に検索」なんて、夢のまた夢の時代だった。


このため分からないことがあった時は、誰かに聞くか、図書館や本屋に行って調べるしかなかった・・・・・・。


誰かに聞くにしても、誰に聞くのがベストなのかなんて分かるはずもなく、結局のところは、身近なところにいる友達に、とりあえず話してみるというのが定番だった。


いま思えば、聞いたところで、何一つ解決しない相手にばかり相談していたのだなぁと思う・・・・・・。


そんな状況だったので、「アレは魔女が呪いの儀式に使った道具だ」とか、「見たこともない老婆がアレを振って呪文を唱えていた」とか、「小人のババアがアレにまたがって、空を飛んでいるのを見た」などという、ろくでもない回答ばかりが収集されていた。


どうでもいいが、なんでこういう怖い話には、ばあさんがつきものなのだろう・・・・・・。


で、私はこの幣束が何なのかについて、ちゃんとした正解を知ったのは、大人になってからだった。


じつはこの幣束は、「晦日祓い」といい、多くの人は「みそかっぱらい」と呼んでいた・・・・・・。


晦日祓いは日本の民間の年中行事のひとつで、幣束は暮れに神社からもらって来る。


神棚のお札といっしょに配布されるところが多いようだ・・・・・・。


そしてその家の主人が、晦日祓いで、まずは家族全員の頭の上を祓い、その後、全ての部屋をお祓いして回る。


そして祓い終わった幣束は、家の外の土が露出している地面に刺して終了となる・・・・・・。


この行事の意味は新年を迎えるにあたり、悪いものを家の外に追い出して、家の中を清浄な状態にしてから、晴れて年神様を迎えましょうという意味合いがある。


そんなわけで、正月休みに近所の道端に出現していた幣束は、べつに恐れるようなものではなかったのだ。


誰だよ、「魔女が呪いの儀式に使った道具だ」なんていったやつは・・・・・・。



2025年7月30日 (水)

トイレにはキンモクセイ

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▲昭和世代の人なら、キンモクセイの花の匂いで、ピコレットやサワデーを思い出すというかたも少なくないのではないだろうか・・・・・・。

私が子供の頃は、トイレの芳香剤といえば、藤沢薬品工業のピコレットか、小林製薬のサワデーのどちらかだった。


どちらの商品もテレビCMをよく流していて、ピコレットは「花の香りの~、ピコレット~♪」、サワデーは「さわやかサワデー♪」がお決まりのフレーズだった。


ピコレットの方は天然パーマの天使の子供のキャラクターが、パッケージの真ん中に描かれていて、CMにもしっかりと出演していて印象的だった・・・・・・。


昭和の頃はトイレの芳香剤といえば、上部が細くなった円筒形をしており、固形の薬剤をプラスチックのカバーで覆っているのが定番のスタイルだった。


そしてそのプラスチックのカバーを上下させることで、薬剤の露出幅を調整し、香りの強弱を付けていた・・・・・・。


そして当時の香りの定番は、キンモクセイの花の香りで、どこのメーカーも一番人気だったといわれている。


そんなこともあって、当時はキンモクセイの花の香りを、「トイレの香り」といったり、橙色の花そのものを、「便所花」と呼んだりする人もいた。


最近ではキンモクセイの花の香りの芳香剤をほとんど見かけなくなってしまったが、当時はキンモクセイ一辺倒というくらい、トイレの芳香剤はキンモクセイの花の香りだったのだ・・・・・・。


ところで当時は全く疑問に思わなかったのだが、それっていったいどうしてなのだろう。


じつはこれについては、くみ取り式便所の時代まで遡る・・・・・・。


私が子供の頃はくみ取り式便所から、水洗式便所への切り替えが進む過渡期で、学校や自宅はすでに水洗に切り替わっていたが、町ではまだバキュームカーを見かける時代だった。


キンモクセイは庭木として普通に見られる身近な樹木だったが、なぜかトイレの近くに植えられていることが多かった。


このため当時はトイレの小窓から、キンモクセイの橙色の花を見ることも多かったものだ。


ご存知の通り、キンモクセイの花は、甘く強い芳香を発することから、花期に入ると町のいたるところが、キンモクセイの香りで満たされていった。


キンモクセイがトイレの近くに植えられていたのは、このことに目を付けた昔の人が、くみ取り式便所の臭い対策の1つとして、これを利用したということらしいのだ。


つまり、トイレの芳香剤の定番がキンモクセイの花の香りだったのは、メーカー発案というわけではなく、昭和の民家周りの風景から、「トイレにはキンモクセイ」を採用し、これが大当たりしたというのが真相のようだ・・・・・・。


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▲いまではそのことを知る人は少なくなってしまったが、かつてヤツデの葉は、「うじ殺し」の殺虫剤として使われていた。これがヤツデが家の裏に植えてあった理由である・・・・・・。

ところでくみ取り式便所の時代に、キンモクセイと並んで、トイレの近くに植えられている樹木が、もう1つあったのをご存知だろうか。


それはヤツデで、昔の日本家屋では、家の裏に必ず植えられていた。


ヤツデはこれといっていい香りの花を咲かせるでもなく、ただ、ただ、天狗の団扇のような大きな葉を、何枚も繁らせるだけである。


ヤツデの名前の由来は、葉に8つの切れ込みがあることからで、別名をテングノハウチワ(天狗の羽団扇)と呼ぶそうだ。


では、どうしてヤツデは庭木の定番として、トイレの近くに植えられていたのだろう・・・・・・。


じつはヤツデの葉は、昔はうじ用の殺虫剤として使われていたことがあり、くみ取り式便所の時代には、「うじ殺し」として、その葉を使っていたのだそう。


ヤツデがトイレの近くに植えられていたのは、きっとその頃の名残なのだろう・・・・・・。


現在ではくみ取り式便所は絶滅し、昔ながらの日本家屋も少なくなったことから、家の裏にキンモクセイやヤツデが植えられている光景は、もうほとんど見かけなくなってしまった。


しかし、自然のものを生活に取り入れていたあの頃って、「なんかいいな・・・」と思ったりする・・・・・・。



2025年3月19日 (水)

お年玉の通帳はどこへ・・・

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▲私が子供の頃、近所にあった東日本銀行は、「ときわ相互銀行」という名前だった。東日本銀行に名称が変更になったのは、1989(昭和64/平成元)年のことだった。画像は奇跡的にうちに残っていた当時のポケットティッシュだ・・・・・・。

私は新年を迎えるたびにふと思うことがある。


「子供の頃にたくさんもらったはずのお年玉は、いったいどこへ消えてしまったのだろう?」ということだ。


確かにお年玉を使って、当時欲しかった、おもちゃやゲームを購入したりもした。


しかし、そんなのはもらったお年玉のほんの一部である・・・・・・。


うちは父も母も兄弟姉妹が多かったので、お正月にもらえるお年玉も、人よりも多かったのではないかと思う。


父の親戚は比較的近くに住んでいる人が多かったので、正月2日に父の実家へ新年のあいさつに行くと、みんな集まっていて、その場で次々とお年玉のポチ袋を手渡してくれたものだ。


私は貢ぎ物を次々と差し出される王様になったような気分になって、「うむ、よきにはからえ」などと、口走ってしまいそうになり、慌てて口をつぐんだものである・・・・・・。


父の兄弟は「近い」とはいうものの、ほとんどの人は電車を乗り継いで来ていたので、一番最後まで残っていたのは、一番近いところに住んでいるうちの家族だった。


人がはけて誰もいなくなると、おじさんは、さっきおばさんからお年玉はもらっているのに、「はい、これ。早くしまって、しまって!」と、懐に隠していたポチ袋を素早く手渡してくれた。


これは毎年のことだったのだが、おばさんには内緒でくれていたらしい・・・・・・。


一方、母の親戚は、みんな遠方に住んでいたので、めったに会うこともなかった。


それでもなぜか毎年お年玉はくれていた。


お年玉をくれるためだけに、わざわざ横浜まで出て来たら、渡すお年玉よりも旅費の方が高く付くので、お年玉は事前に送ってくれていた・・・・・・。


普通は現金を送るとなると、現金書留用の封筒を購入して、その中に現金を入れて、郵便局から郵送するものだ。


ところが母の親戚は、お歳暮の荷物の中にポチ袋を忍ばせて送って来る人がほとんどだった。


田舎なのでお歳暮と言っても、家でついたお餅や、自家製の味噌や漬物、畑で採れた野菜、近くの果樹園から直送してもらえる果物などがほとんどだったので、それも可能だったのだろう。


これがデパートやスーパーなどから配送してもらう、一般的なお歳暮だったら、完全にアウトだったろう・・・・・・。


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▲近所で唯一の銀行だったこともあり、ここにはお年玉を預けていただけでなく、記念硬貨が発行されたりすると、交換してもらいに行ったりしていた・・・・・・。

そんなわけで、私は子供の頃、毎年かなりの額のお年玉をもらっていた。


私はもらったお年玉は学習机の引き出しに入れて保管していた。


もともと引き出しには、ほとんど何も入っていなかったので、ポチ袋が1つ1つ増えて行くにつれて、「お店のレジスターみたいでかっこいいな」と思っていた。


そしてたまにポチ袋の口を開けて中身を確認しては、大金持ちになったような気分になって、「これで一生遊んで暮らせる。イッヒッヒ・・・」などと、ひとりニヤニヤしていたものである・・・・・・。


そんなある日のこと、母がとつぜん、「子供がそんなに大金を持っていてはいけない」などと言い出し、「お年玉で買う予定でいた、ゲームソフト代だけを取って、あとはあんたの口座を作っておいたから、銀行に預けておきなさい」と、頼んでもいないのに、近所にある銀行の真新しい通帳を、私に「サッ!」と差し出した。


確かに通帳には私の名前がしっかりと印字されている。


「自分の通帳なら他人には使えないから、まあいいか・・・」と思い、私は毎年お年玉貯金を繰り返すこととなった。


いま思えば、毎年積み立てていた私のお年玉は、そこそこの金額になっていたはずである・・・・・・。


そんな私も社会人となり、忙しい日々を送るうちに、子供の頃にもらったお年玉のことなど、すっかり忘れてしまっていた。


20代半ばの頃だったろうか。


私は急にそのことを思い出し、母に「そういえば、お年玉の通帳はどうしたかね?」と聞いたところ、「えっ!?ああ、そのまま保管してあるよ。何かあった時のために、そのまま銀行に預けておきなさい」というので、たいして気にもせず、銀行に預けておいてもらうことにした・・・・・・。


そして月日は経って、一昨年の暮れ近くになって、私のお年玉を預けてあるはずの、東日本銀行の前を通ると、玄関前にとある張り紙がしてあることに気付いた。


「なんだろう?」と思って覗き込むと、「店舗移転のご案内」とある。


本文を読むと、「現在地において1978年3月以降営業しておりましたが、2023年1月23日に最寄りの「横浜支店」内に移転することになりました」とある。


驚きと同時に私が物心ついた頃から、ずっとそこにあった店舗が、ここからなくなることの寂しさで、何ともいえない気分になっていた。


その後、私は子供の頃に作ってもらった、あのお年玉の通帳を家中探し回ったのだが、ついにそれは見つけられなかったのだった。


20代の半ば頃に通帳について尋ねた時の、母の一瞬うろたえたような反応がふと思い出されたが、いまはもう確かめようのない思い出となっていたのだった・・・・・・。


2025年1月29日 (水)

牛乳配達

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最近は瓶入りの牛乳を見る機会がすっかりなくなってしまったが、昭和の頃は、ほとんどの家が牛乳屋さんから牛乳を配達してもらっていたので、瓶入り牛乳は嫌でも毎日見ていたものだ。


朝起きて郵便ポストから朝刊を、そして牛乳箱から瓶牛乳を取って来るのが、昭和の朝の光景だったのである・・・・・・。


ところで牛乳箱などといっても、現代では通じないかもしれないが、天板が蓋になっていて、「カパッ!」と開くことが出来る、木製の四角い箱と思って貰えばよいと思う。


イメージとしては、鳥の巣箱がそっくりなのだが、もちろん鳥が出入りするための丸い穴はない。


そして牛乳箱は全体を黄色や赤色などの目立つ色に塗ってあって、牛乳屋さんに見つけてもらいやすく工夫してあった・・・・・・。


昔は新聞配達や牛乳配達は、早朝のまだ薄暗い時間帯に来ていて、家の前で止まるバイクのエンジン音や、自転車の「キーーーッ!」とというブレーキ音が、目覚まし時計代わりになっていたという人も少なくなかった。


牛乳配達に至っては、自転車の荷台から牛乳瓶を取り出す時の、「カチャカチャ」という音を聴いて、無性に朝の一杯を飲みたくなって、「ボーーッ」としていた頭が急速に冴えていくのを感じていたという人もいたそうである・・・・・・。


ところで、当時は配達された新聞や牛乳を取りに行くのは子供たちの仕事だった。


このため昭和のドラマやアニメでは、朝起きて子供が眠い目をこすりながら、玄関先まで新聞と牛乳を取りに行く場面が、しばしば描かれていたものだ。


サザエさんのカツオや、ドラえもんののび太が、パジャマ姿で新聞や牛乳を取りに行くシーンを見たことがあるという人も、少なくないのではないだろうか・・・・・・。


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ところで今となっては、「新聞はともかく、牛乳って誰が配達していたの?」と思う人も少なくないかもしれない。


じつは昭和の頃には、商店街など町のあちこちに牛乳の販売店があって、店の人が自転車の荷台に、牛乳瓶がたくさん入った箱を積んで、契約してもらっている各家庭に、牛乳を配達して回っていたのである。


新聞屋さんの牛乳版と思ってもらえばよいかと思う・・・・・・。


そして牛乳の配達を牛乳屋さんと契約した時に手渡されるのが牛乳箱で、「玄関先の分かりやすい場所に設置しておいて下さい」と言われていた。


牛乳箱の色は牛乳メーカーごとに違っていて、間違って配達されることがないように工夫してあった・・・・・・。


そして牛乳配達の優れていた点は、飲み終わった空き瓶を牛乳箱に戻しておくと、牛乳を配達してくれる時に、空き瓶を回収して持ち帰ってくれていたことだろう。


ゴミやリサイクルの問題が叫ばれる以前から、牛乳配達というシステムでは、牛乳瓶を循環させる仕組みが、すでに出来上がっていたのである・・・・・・。


そんな牛乳配達だったのだが、牛乳パックの登場をきっかけに、じょじょに減少していくことになる。


そしてそれはスーパーマーケットが増加して、商店街が衰退し始めた頃とちょうど重なる。


牛乳配達を見なくなっても、牛乳瓶は根強く生き残っていたのだが、2020年前後から乳業メーカー各社は、瓶入り商品の販売を、相次いで取り止めて来ている。


いま思えば、牛乳配達が減少していった時点で、「毎朝牛乳を飲む」という昭和の文化は、とっくの昔に消滅していたのかもしれない。


しかし、牛乳配達の自転車の「キーーーッ!」というブレーキのきしむ音や、荷台から牛乳瓶を取り出す時の、「カチャカチャ」という、瓶がぶつかり合う音は、私の記憶から消えることは決してないだろう。


いまこうして振り返ってみると、牛乳配達とは単に牛乳を届けていただけではなく、「昭和の朝」そのものだったのである・・・・・・。


(画像上、梅に鶯という言葉があるように、ちょうどこの時期に和菓子屋さんの店頭に出る「うぐいす餅」・・・・・・。画像下、ヨモギの芽が出始めるころに店頭に出る「草餅」・・・・・・)



2025年1月 2日 (木)

近所にあった「ほかほか弁当」

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▲昭和の頃、商店街の外れにあった「ほかほか弁当」は、このようなチェーン店ではなかったと思うのだが、残念ながらいまとなっては確かめようもない・・・・・・。

私が中学生の頃、近所の商店街の外れに、「ほかほか弁当」という弁当屋がオープンした。


当時はコンビニ弁当が、まだあまり美味しくなかった時代だったので、近所に弁当専門店が出来ることは、みんな大歓迎だった。


「ほかほか弁当」はとてもシンプルな店構えで、店内に客が入るスペースは一切なくて、窓口で注文を受けて、その同じ窓口から出来上がった弁当を受け取る、「窓口販売」のシステムだった・・・・・・。


で、この「ほかほか弁当」なのだが、私は初めて弁当を買いに行った時の衝撃がいまでも忘れられない。


何がそんなに衝撃だったのかというと、簡単に言えば、弁当の量が信じられないくらい多かったことだ。


当時は現在のように、エコバッグ持参ではなかったので、弁当屋でも大きめのレジ袋に、出来上がった弁当をすっぽり入れて、手渡してくれていた。


このため、手渡された時点では、中の弁当がどんな状態なのかは、よく分からなかったのだが、家に持ち帰って、袋から弁当を取り出してみてビックリ仰天。


なんと弁当のフタが思いっ切り浮いているのだ。


それも5㎝以上もである。


で、浮いている弁当のフタは、2本の輪ゴムでしっかり止めてあるのだが、きっと、この輪ゴムがなかったら、中身が飛び出して袋の中に散らばり、大変なことになっていただろう・・・・・・。


で、問題は「なんで弁当のフタが浮いているのか?」である。


これについては、輪ゴムを外してフタを開けてみれば一目瞭然だった。


この時、私が買ったのは、「唐揚げ弁当」だったのだが、弁当ではちょっと見たこともない量の唐揚げが、山盛りに入っていたのである。


確かかなり大きなサイズの唐揚げが10個は入っていたように思う。


「入っていた」というより、「無理矢理入れてあった」という表現の方が正しいかもしれない


たくさん入っていること自体は喜ばしいことなのだが、「何もそんなに無理に詰め込まなくてもいいんじゃないか・・・」と思えるほどの量だった・・・・・・。


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▲現在のお弁当はこのような横型の容器が主流になっているが、昭和の当時は縦型が主流で、おかずの入るスペースと、ご飯の入るスペースが均等に仕切られていた。また、容器は白く中身が見えない仕様になっていた・・・・・・。

ところで最近のコンビニ弁当の容器は、ご飯の入るスペースより、おかずの入るスペースの方が広く取られていて、ご飯好きの私としては、「なんで?」と疑問に感じてしまうのだが、「ほかほか弁当」の容器は、おかずの入るスペースとご飯の入るスペースが、きれいに均等に分かれていた。


そして先ほどは唐揚げの量に驚かされたのだが、じつは「ほかほか弁当」の弁当は、ご飯の量も半端がなかった。


一目見て分かるほどの山盛りのご飯が、ギュウギュウに詰められていたのだ。


「てんこ盛り」という言葉は、正にこの弁当のためにあるのではないかと思えるほどである・・・・・・。


その量たるや、ご飯茶碗3杯分以上は優にあるのではないかと思えるほどだった。


それは一般的な弁当屋で、50円増しでオーダー出来る、「大盛り」を遙かに凌ぐ量といえるだろう。


じつは弁当を持って帰るときに、「弁当しか持っていないのに馬鹿に重たいな」と思ってはいたのだ・・・・・・。


で、こんなに爆盛りの弁当だと、値段もさぞかしお高いのだろうと思われるかたも少なくないかもしれない。


しかし、私の記憶が間違っていなければ、これでたったの500円だった。


このように近所の「ほかほか弁当」の弁当は、おかずもご飯も超大盛りだったので、初めて見たときは、家族そろって、目ん玉を丸くして、ただただ顔を見合わせていたのだった・・・・・・。


そんな弁当だったので、ガテン系の仕事の人たちには特に人気で、平日の昼時には、作業服姿の人で行列が出来ていたそうである。


ところで近所の商店街の外れにあった「ほかほか弁当」だが、いま思うと、とてもチェーン店には見えなかった。


弁当を作っている人は3人いたが、全員制服は着ていなくて、白い割烹着を羽織った、近所のおばちゃんのような格好だった。


また、店名の書かれた看板も、ロゴマーク的なものはなくて、ただ、「ほかほか弁当」と黒いシンプルな文字で書かれているだけだった。


そんな「ほかほか弁当」だったのだが、私の知らないうちに、いつの間にか閉店してしまっていた。


「あんなに繁盛していたのになんでだろう?」と、近所の人たちは顔を見合わせていたのだが、私はおばちゃんたちが調子に乗って、おかずとご飯を盛り過ぎて赤字が続き、ついに潰れてしまったのではないかと、密かに思っていたのだった・・・・・・。


2024年7月10日 (水)

「昭和の遊具」タイヤの遊具

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▲昭和の頃にはよく見たタイヤの遊具だが、最近は学校や公園から姿を消しつつある・・・・・・。

私が子供の頃、学校の校庭や公園には、必ずタイヤの遊具が設置されていた。


当時、最もよく見かけたタイヤの遊具は、半分が土に埋められているタイヤが、等間隔に並べられているものだった・・・・・・。


ところでこのタイヤの遊具だが、いま考えると、名前も分からなければ、遊び方も分からない謎の遊具だった。


このため遊び方も人それぞれで、跳び箱を飛ぶように、タイヤの上部に手をついて、ピョンピョンと連続して飛び越えて行く者や、タイヤの上に乗って、バランスを取りながら、タイヤからタイヤへと、飛び移って行く者などがいた。


また、タイヤのカーブに自分の背中を当てて、ブリッジのような姿勢になって、「ぬあ~~~っ!」などと叫んでいるやつや、タイヤの穴に自分の身体をすっぽり通して、そのまま地面に横たわり、タイヤの上を飛び越えて行く者が、自分の上に落下して来て、顔や股間を踏み付けられるんじゃないかというスリルを楽しんでいるおかしなやつもいた。


当時はそんなことをして、いったい何が楽しいのか、意味がさっぱり分からなかったものだが、いま思えば彼は、足を滑らせて落下して来た女子に、本当に顔や股間を踏み付けられたかったんじゃないかと思う。


いわゆる「どMのはしり」というやつだ。


大人になった彼の性癖がエスカレートしていないことを祈るばかりである・・・・・・。


ところでこのタイヤの遊具、設置されている施設によって、タイヤの埋まり具合や、タイヤとタイヤの間隔が微妙に違っていた。


タイヤの埋まり具合に関しては、タイヤの半分程度が、地面に埋められているのが普通だが、半分以上が土に埋められて、タイヤの上部だけが地上に出ているところもあった。


これでは低すぎて、跳び箱のようにピョンピョン飛び越えて行くことは出来ず、自動的にタイヤの上をバランスを取りながら歩いて行く遊び方しか出来なかった。


で、それが面白いかと言われれば、決して面白くはないのはいうまでもないことだ・・・・・・。


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▲タイヤの埋まり具合や間隔には、これといった決まりはなかったようで、それぞれの施設でまちまちだった・・・・・・。

また、タイヤの埋まり具合は普通だが、タイヤとタイヤの間隔がおかしなことになっている公園もあった。


普通はタイヤとタイヤの間隔は、子供が飛び越えられるくらいの間隔で並べられているものだ。


ところがその公園では、「間隔」などという概念は一切なく、タイヤは全てくっつけた状態で並べられていた。


これでは丸太が置いてあるのと変わらない。


これでいったいどうやって遊べというのか。


ちなみに私はそのタイヤの遊具で、子供が遊んでいるのを見たことは一度もなかったが、酔っ払いがベット代わりにして寝ているのは、何度か見たことがあった・・・・・・。


タイヤの遊具といえば、横倒しにしたタイヤを、3本のロープで吊った、ブランコのような遊具もあった。


テレビでパンダが乗って遊んでいるのをよく見ると思うがアレである。


ただ、このタイヤのブランコ、見た目はブランコなのだが、子供にはけっこう高さがあって、タイヤの部分に座ると、足が地面に届かないのである。


だから誰かがいっしょにいないと、ブランコのように揺らして遊ぶことが出来なかった。


遊び方としては、友達に後ろから押して揺らしてもらうのが一般的だったが、友達にタイヤの部分を、ハンドルを回すようにゆっくりと回転させてもらい、3本のロープを三つ編み状にして、限界まで達したところでパッと手を離し、タイヤを高速で回転させる遊び方が最も流行っていた。


タイヤといっしょに高速で回転しながら、振り落とされないように、必死にしがみついていると、知らないうちに尻がタイヤの穴にハマっていき、回転が止まった後に、タイヤの穴から尻が抜けなくなって焦っているやつもいた。


友達に協力してもらって、なんとかタイヤから尻を抜いたはいいが、今度は目が回っているため、まともに歩くことが出来ず、まるで酔っ払いのコントでも見ているような歩き方で、左前方にある砂場に突進して行き、でんぐり返しをして、ようやく立ち止まるという有り様だった。


そして公園で遊んでいた小さな子供たちは、その滑稽な歩き方に大爆笑で、フラフラになって砂場で転がっている彼も、その様子を見てまんざらでもない様子だった。


きっと彼は、当時子供たちに大人気だった、ドリフのコントのようなことが出来て、満足だったのだと思う・・・・・・。



2024年6月28日 (金)

フイルムの自動販売機

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▲現在ではこの画像を見ても、なんなのか分からないという人も、決して少なくないのだろう。じつはカメラのフイルムはこのようなケースに入って売られていたのだ・・・・・・。

昭和の頃には当たり前のようにあったのに、いつの間にかなくなってしまった自動販売機というのがいくつかある。


例えば「フイルムの自動販売機」がそうである・・・・・・。


デジタルカメラが登場する以前は、カメラにはフイルムを入れる必要があり、撮り終わったフイルムは現像に出さなくてはならなかった。


デジタルカメラでいうところの、メモリーカードの役割を果たしていたのがフイルムだったのである。


メモリーカードは容量にもよるが、一度買ってしまえば、相当な枚数を記録することが出来るが、フイルムは24枚撮りか36枚撮りが主流だったので、カメラに装填していたフイルムを撮り切ってしまったら、その都度、新しいフイルムに交換しなくてはならなかった。


このため、どこでも手軽にフイルムを入手出来るよう設置されていたのが、「フイルムの自動販売機」だったのである・・・・・・。


「フイルムの自動販売機」は、近所では商店街の道端や、DPE店の前などに設置されていたが、観光地では目に付く場所には、複数のメーカーのものが必ず並べて設置されていた。


「フイルムの自動販売機」は、富士フイルムやコダック、コニカなど、各フイルムメーカーごとにあって、取扱商品の中にはフイルム以外にも、当時人気だった「写ルンです」をはじめとする、「レンズ付きフイルム」もあった・・・・・・。


ところで、カメラのフイルムには、カラーネガフイルム、カラーポジフイルム(リバーサルフイルム)、モノクロフイルムの3種類があった。


このうち「フイルムの自動販売機」で売られていたのは、最も一般的といえる、カラーネガフイルムだった。


「写ルンです」をはじめとする、レンズ付きフイルムもこのカラーネガフイルムになる・・・・・・。


カラーネガフイルムは、撮影した写真を紙にプリントして観賞することを目的としたフイルムになる。


ちなみにカラーネガフイルムの「ネガ」という言葉は、反転という意味の「ネガティブ」から来ている。


カラーネガフイルムで撮影すると、色彩が反転して記録されることが、名前の由来となっている・・・・・・。


撮影したカラーネガフイルムを電気の灯りなどに透かして見ると、被写体の明るさが反転して写っていて、「?」と感じるのはこのためである。


そしてこれを専用の紙にプリントすることで、色の反転していない正常なカラーの写真に仕上がるのである。


当時はそれが当たり前だったので、べつになんとも思っていなかったが、いま考えると、デジタルカメラの仕組みよりも、ずっと難解に感じるものである・・・・・・。


カラーネガフイルムは最も扱いやすく、値段も安価だったので、当時はカメラのフイルムといえば、このカラーネガフイルムのことだった。


その反対にプロやアマチュアのカメラマンが使う、カラーポジフイルム(リバーサルフイルム)やモノクロフイルムは、その存在すら知らなかったというかたも少なくないと思う・・・・・・。


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▲昭和の頃、フイルムを取り出した後のフイルムケースは、小銭や服のボタンなど、ちょっとした小物入れに使っていた・・・・・・。

ところでフイルムはカメラに装填しなければ何の役にも立たない。


このため当たり前の話だが、フイルムカメラにはカメラ内部にフイルムを入れるスペースがあった。


フイルムカメラはカメラの後ろ側に大きく開く裏蓋があって、これをパカッと開くと左側にフイルムを収める窪みが現れる。


そしてフイルムはただ入れただけでは撮影することは出来ず、フイルムを少し引き出して右側の巻き上げ軸に差し込む必要があった。


フイルムがちゃんと差し込まれていないと、フイルムを巻き上げることが出来ず、写真を撮影することは出来ないのだ。


ここまでやって、ようやく裏蓋を閉じるのだが、撮影準備はまだ終わらない・・・・・・。


フイルムの巻き上げが手動だった頃は、フイルムカウンターが「0」になるまで、巻き上げと空シャッターを繰り返す必要があった。


そしてフイルムカウンターが「0」になって、はじめて撮影準備が完了したことになるのだ・・・・・・。


そのうちカメラにフイルムの自動巻き上げ機能が付いて、この作業を自動でやってくれるようになり、「シャーッ!」という巻き上げ音を聞きながら、「便利になったものだな~」と感動したものである。


それが現在では指先にちょこりと乗るほどの小さなメモリーカードを、カメラのスロットにワンタッチでスッと差し込むだけで、撮影準備は完了となり、しかもそこに数千枚もの画像を保存出来るようになった。


カメラには付き物だったフイルムがなくなって、こんなドラえもんの秘密道具のようなカメラが誕生することになろうとは、当時は誰も想像すらしていないことだったのである・・・・・・。



2024年6月16日 (日)

小鳥屋さんと大納言

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子供の頃はあちこちにあったのに、いつの間にか見かけなくなってしまった店というのが結構あるものだ。


例えば商店街にあった小鳥屋さんがそうである。


現在ではペットショップはあっても、飼い鳥の専門店というのは、あまり見かけなくなってしまった。


鳥好きの私としては、なんとも寂しい限りである・・・・・・。


昭和の頃、小鳥屋さんはなぜかどこの商店街に行っても、観賞魚の店と並んで立っていることが多く、どちらの店も子供たちでいつもにぎわっていた。


小鳥屋さんに入って、店内を一回りして来た子供たちは、その足で観賞魚の店も見に行くのが定番のコースになっていたので、この並びはもしかしたら、商店街の戦略の1つだったのかもしれない・・・・・・。


小鳥屋さんは店の軒先からすでにたくさんの鳥かごが置かれていて、店の外壁が見えないほどだった。


そして小鳥屋さんといえば、店先には必ずおしゃべりが得意な大型のインコやオウム、九官鳥などがいて、客引きの大役を任されていた。


当時は商店街で買い物中のお母さんや、店の前をたまたま通りかかった人たちが、ちょっと足を止めて、おしゃべりインコに、「こんにちは!」と声を掛けてくのが日常の光景になっていた・・・・・・。


何気なく声を掛けたおしゃべりインコが突然店主の声で、「このまえ坊ちゃんが来てましたよ!」などとしゃべり出し、「ええ~~~っ・・・⁉」と驚いているお母さんたちを、当時はよく見かけたものである。


大型のインコやオウムはとても頭がよく、ただものまねをするだけではなく、相手のしゃべり方や声色を真似たり、簡単な会話が出来る個体までいる・・・・・・。


また、店主と客が店先で会話をしているのを聞いていて、客の名前と顔を覚えてしまい、その客が歩いて来るのを見つけるたびに、「吉田さ~ん、吉田さ~ん!」などと、大声で呼びかけていることもあった。


吉田さんはおしゃべりインコに駆け寄って、「ちょっと、恥ずかしいからやめてよ~!」と、真顔で抗議していたが、おしゃべりインコに、「吉田さん、今日のおやつはリンゴだよっ、いる?」などと畳みかけられて、思わず「プッ!」と吹き出してしまい、店先でおしゃべりインコといっしょに爆笑する羽目になるのだった。


ちなみにおしゃべりインコの笑い声は、店主の豪快な「ガハハ」という笑い声を真似ているので、余計にバカバカしく聞こえるらしく、吉田さんは思わず笑いのツボにはまってしまい、小鳥店の店先でおしゃべりインコといっしょに、涙を流しながら、腹を抱えて笑っていた。


きっと、傍から見たら、世にも奇妙な光景だったことだろう・・・・・・。


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小鳥店で子供たちに特に人気だったのは、なんといってもセキセイインコだった。


セキセイインコは羽の色や模様の変化で、200種類以上の品種が作り出されているといわれていて、そのバラエティー豊かな品種の中から、自分の好きな色柄を選べることも、人気のひとつとなっていた。


店内に入るとセキセイインコは、店の奥の棚のほとんどを占めていて、きっちり品種ごとに分けてカゴに入れられて、展示販売されていた。


カゴには「オパーリン」や「ハルクイン」、「ウイング」や「レインボー」など、品種名のプレートが1つ1つ付けられていて、初めて見た時は、その数の多さにとても驚いたものである・・・・・・。


当時の私が特に印象に残った品種は、「大納言」というプレートが付けられている品種だった。


なぜかというと、他の品種は全て「オパーリン」とか、「ハルクイン」などのカタカナ表記なのに、「大納言」だけはドーンと大きく漢字表記で、ご丁寧にもふりがなまで付けられていたのだ。


子供の頃は「大納言」という言葉の意味も分からなかったので、単純に「なんでこれだけ漢字なんだろう?」とずっと思っていた。


ちなみに大納言の一般的な意味としては、律令制において、左大臣、右大臣、内大臣に続く4番目の官位のことを指している。


大納言は「大臣」に次ぐ身分に当たり、大臣、中納言らと政務に参与し、大臣不在の時はこれを代行していたといわれている。


一方、セキセイインコの品種としての大納言はというと、簡単に言うなら斑の一品種で、後頭、風切羽、尾羽に加え、胸にも大きく地色が出たものを指している。


これがどうして太政管の次官である「大納言」と繋がったのかはよく分からないが、個人的にはその斑の出方が、和装の着物のように見えて、その堂々とした佇まいが、まるで役人のように感じられたからではないかと勝手に想像している・・・・・・。


ところで、当時近所の和菓子屋には、「大納言」という名前の、大きな豆大福が売られていた。


そのこともあって、私はセキセイインコの品種としての「大納言」を初めて知った時、「なぜ、大福の名前を付けたんだろう?」と、まず疑問に思った。


そしてそれと同時に、品種名のプレートに書かれていたふりがなを見て、「あの大福は、だいなごんって読むのかぁ」と、その読み方を初めて知ることになったのだった。


世の中、何がどこで繋がっているか分からないものである・・・・・・。


(画像上、大きな白いお皿のような花を咲かせるタイサンボク・・・・・・。画像下、木の幹に溶け込む様子はまるで忍者のウンモンスズメ・・・・・・)



2024年4月17日 (水)

「謎フレーズ探偵」たけやさおだけ

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最近は「さおだけ屋」なんて、ほとんど見かけなくなってしまったが、私が子供の頃には、さおだけ屋は「やきいも屋」、「ちりがみ交換」と並んで、町内をしばしば巡回している車の1つだった。


「さおだけ屋」は軽トラックの荷台に、竿竹と物干し台を乗せて各町内を回り移動販売をしていた・・・・・・。


また、「さおだけ屋」といえば、「た~けや~、さおだけぇ~、2本で〇円、2本で〇円、〇年前のお値段です」というフレーズがお馴染みで、これを軽トラのスピーカーから流しながら、かなりゆっくりとしたスピードで町内を走っていた。


ちなみに「〇」の部分については、時代と共に少しずつ変化していたのではないかと思う・・・・・・。


ところで私が子供の頃は、「やきいも屋」と「ちりがみ交換」は呼び止めている人をよく見かけたものだが、「さおだけ屋」を呼び止めている人は、個人的には一度も見たことがなかった。


というのも、当時さおだけ屋は、「悪徳商法で詐欺である」という噂が流れていて、車を呼び止めたが最後、運転席から怖いおじさんが降りて来て、高額な竿竹や物干し台を売りつけて来ると言われていた。


軽トラのスピーカーからは、「2本で〇円、2本で〇円、〇年前のお値段です」と流してはいるが、実際には言葉巧みに誘導されて、最終的には5~6万もする高額商品を買わされるというのである・・・・・・。


ちなみに「2本で〇円、〇年前のお値段です」のフレーズだが、「2本で千円、20年前のお値段です」と記憶されているかたが多いと思う。


じつはこの部分については、「2本で千円というのは20年前のお値段で今は違いますよ」という意味が隠されているというのだ。


ちゃんと逃げ道は作ってあるということだろう・・・・・・。


また、実際に2本で千円の品物から、幅広い価格帯で商品を揃えてはいるが、安い商品はすぐに錆びて、買い替えなくてはならなくなる。


「それならば、長持ちする高級品の方が、長い目で見たら安く付きますよ」と説明され、結局は高額な商品を買わされることになるのだという話もあった。


うちではさおだけ屋から、竿竹や物干し台を買ったことは一度もなかったので、実際にその噂が本当だったのかどうかは定かではないが、当時はその噂を信じている人が多かったように思う・・・・・・。


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ところでこれは大人になってから知った話なのだが、じつは「さおだけ屋」というのは、国家機関などから依頼されて、隠密活動を行っている集団で、竿竹の移動販売という業務形態は、それをカモフラージュしているに過ぎないのだという、まるで都市伝説のような噂まで存在していた。


前述のように、私は「さおだけ屋」をわざわざ呼び止めて、竿竹や物干し台を買っている人を見たことは過去に一度もなかった。


そもそも竿竹や物干し台なんて、そう頻繁に買い替えるようなものではないし、いつも売れない竿竹を荷台に積んで、町内を流しているだけの軽トラを見ていると、子供だって、「こんなんで、商売になるのかよ」と疑問に感じていたほどである。


それを考えると、先程の「そんな馬鹿な」と思えるような都市伝説が、なんだか現実味を帯びて来るような気がしてならないのだ・・・・・・。


では、さおだけ屋が国家機関から依頼されている隠密活動とは、いったいどのようなものなのだろうか。


これについては、電波傍受や盗聴を始め、一般には法的に行えないことを、代行しているのだという。


どうでもいいが、もしそれが事実だとしたら、「一歩間違えたら、犯罪者じゃねえか」という気がしないでもない・・・・・・。


では、そんな怪しい依頼が、具体的にはどこから来ているというのだろうか。


これについては、ズバリ、「公安警察」なのだそうだ。


「え~~~~~!」という気がしないでもないが、実際のところ、町内に紛れ込んで、潜伏している犯人を探し出すことは、決して容易なことではなく、定期的に軽トラで町内を流している「さおだけ屋」は、情報収集にはうってつけの存在なのだとか。


また、逃亡生活を続ける犯人の側からすると、さおだけ屋の「た~けや~、さ~おだけ~」のフレーズを聴くことで、「公安に追い詰められている」という気持ちが増していき、精神的にどんどん追い詰められていくのだそうだ・・・・・・。


ところで、なぜ逃走犯は「さおだけ屋は公安と繋がっている」ということを知っているのだろうか。


「怪盗〇〇〇〇」的な犯人なら、そんな情報を握っていても、決しておかしくはないが、元は一般人だったであろう普通の犯人が、そんな情報を知っているとはとても思えない・・・・・・。


私が子供の頃に聴いた、「た~けや~、さ~おだけ~」というあのフレーズは、まるで民謡歌手のような歌い方をする、おっさんの声だったのだが、いつの頃からか、あまり歌が上手いとは言いかねる、若い女性の声に変わっていた。


ちなみにスピーカーから流れてくる声は若い女性の声だが、運転しているのは、相変わらず、くたびれたおやじなので、「ちょっと見に行ってみよう」なんて気は起こさない方がよい。


多くの人に声を掛けてもらうための、イメージ戦略だったのかもしれないが、逃走犯にプレッシャーをかけて追い詰めるためには、昭和の頃によく聴かれた、あの、おっさんの声の方がよかったんじゃないかなぁと思う今日この頃である・・・・・・。


(画像上、岩に根付いたタチツボスミレ・・・・・・。画像下、身近な春の花、カントウタンポポ・・・・・・)


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