カテゴリー「レトロ雑誌、本」の記事

2023年9月15日 (金)

「ドラクエ」RPGがまだ浸透していなかった時代


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▲初代ドラゴンクエストのラスボスの「竜王」。いまでは考えられない話だが、当時は攻略本にラスボスの姿が堂々と掲載されていた・・・・・・。

任天堂から家庭用ゲーム機のファミリーコンピューターが発売になったのは、1983(昭和58)年7月15日のことだった。


そして1985(昭和60)年から1986(昭和61)年にかけては、ファミコンの出荷台数のピークで、1985(昭和60)年は374万台、1986(昭和61)年は390万台が出荷されている。


そしてこのファミコンブームの真っただ中の、1986(昭和61)年5月27日に、満を持して発売になったのが、後に日本が世界に誇るRPGとなる、「ドラゴンクエスト」だったのである。


ちなみにドラゴンクエストは、家庭用ゲーム機では初のRPGだった・・・・・・。


当時はパソコンでは、「ウィザードリィ」や「ザナドゥ」などのRPGがすでに発売になっていたが、これらのタイトルはパソコンのゲームということもあって対象年齢が高く、子供が遊ぶにはちょっと難解で、キャラクターデザインも少々とっつきにくいものであった。


当時、任天堂は「ファミコンはあくまでもおもちゃ」と公言しており、小中学生が主なターゲットだったため、ドラクエは子供に興味を持ってもらえるような、可愛らしいキャラクターデザインにして、ゲームのシステムも極力単純化して、シンプルなコマンド選択式が採用された。


さらにドラクエの開発を手掛けていた堀井雄二さんは、ドラクエの発売に先駆けて、すでにパソコン版が発売になっていた、「ポートピア連続殺人事件」をファミコンに移植。


そしてドラクエ発売の前年の、1985(昭和60)年11月29日にリリースした。


「ポートピア連続殺人事件」には、「ばしょいどう」、「ひとにきけ」、「ひとしらべろ」、「なにかみせろ」、「ひとさがせ」、「よべ」、「たいほしろ」などのコマンドがあり、これを選択して行くことで、ストーリーを進めて行くことになる。


つまり、「ポートピア連続殺人事件」というアドベンチャーゲームを先に発売して、コマンド選択式のゲームにまず慣れてもらい、ドラクエをプレイする時に、プレーヤーが戸惑わないように仕掛けがされていたのだ。


さらにドラクエといえば、当時は「少年ジャンプ」誌上に、なぜかファミコンのゲームソフトを紹介するページがあって、ここにファミコン専門誌にも載っていないような情報が、開発中の画面写真と合わせて紹介されていた。


堀井さんはこのページに、発売前のドラクエの情報を掲載して、当時はまだ一般的ではなかったRPGというジャンルを、少しずつ世間に浸透させていったのだ・・・・・・。


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▲当時はドラクエの発売元のエニックスに、出版部門がまだ設立されていなかった。このため攻略本は徳間書店から発売されていた。そしてこの攻略本には、他のモンスターと同様にラスボスの姿も堂々と掲載されていた・・・・・・。

ところで1985(昭和60)年から1986(昭和61)年にかけては、ファミコンの出荷台数のピークだったと書いたが、じつはこの2年間はファミコン専門誌の創刊ラッシュでもあった。


いまでは考えられないような話だが、最盛期にはなんと10誌ものファミコン専門誌が、出版各社から発売になっていたのである。


そしてゲームの攻略本が誕生して、次々と刊行されて行くようになるのも、ちょうどこの頃からだった・・・・・・。


ちなみに上の画像は、1986(昭和61)年9月30日に発売になった、初代ドラゴンクエストの攻略本である。


当時はまだ、ドラクエの発売元のエニックスに、出版部門が設立されておらず、攻略本は徳間書店から発売になっていた。


で、この攻略本の中身を見て驚いてしまうのは、なんと初代ドラクエのラスボス「竜王」の姿が、モザイクを掛けられるでもなく、堂々と掲載されているのである。


しかも、変身前の姿のみならず、変身後の姿まで載っていて、「これが竜王の正体だ」と、はっきりと書かれているのである。


いまだったらちょっと考えられない話なのだが、当時はまだRPGというジャンルが一般に浸透しておらず、ラスボスなんていう概念も、正直よく分かっていなかった。


だから「他のモンスターは全部出しているのに、なんで最後の敵だけ載せちゃいけないの?」という感じだったのだ。


それは出版社の側も、プレーヤーの側も同様だったと思う。


だから当時はファミコン専門誌の記事の中でも、ラスボスの姿がごく普通に載っていた記憶がなんとなく残っている。


「そんな時代もあった」といえばそれまでだが、何事も最初というのは手探りなのである・・・・・・。


2023年7月29日 (土)

学研が出していたファミコン専門誌

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▲ファミ通は現在も発売されている、唯一の家庭用コンピューターゲーム専門誌である。じつは創刊当時のファミ通は「ファミコン通信」という誌名だった。そしてそのファミコンの名前を、未だに誌名に残してくれていることは、ファミコン世代にはとても嬉しいことだ・・・・・・。

インターネットがまだなかった時代、ゲームソフトの情報提供は雑誌の役割だった。


当初、コンピューターゲームの主流はパソコンだったが、1983(昭和58)年7月15日にファミコンが発売になったことで、その流れは大きく変わって行った。


特に1985(昭和60)年から、1986(昭和61)年にかけては、ファミコンの出荷台数のピークで、1985(昭和60)年は374万台、1986(昭和61)年は390万台が出荷されている。


そしてこれを契機に、ファミコン専門誌が次々と創刊されて行くことになったのである。


今では考えられない話だが、最盛期にはなんと10誌ものファミコン専門誌が出版各社から発売になっていたのだ。


そんなファミコン専門誌だったのだが、現在でも発売されているのはわずか1誌だけで、他は全て休刊になってしまっている。


あの時代を知っている者としては、なんとも寂しい限りである・・・・・・。


このように一時は雨後の筍のごとく、創刊ラッシュだったファミコン専門誌なのだが、その全てが順調に売れて行ったという訳ではなかった。


その理由の1つは、ほぼ同時期に創刊ラッシュとなってしまったため、ライバルが多かったことが上げられるだろう。


「ファミコントップ」は1986(昭和61)年4月に学研から創刊されたファミコン専門誌だった。


1986(昭和61)年には、なんと6誌ものファミコン専門誌が創刊になっていて、ちょうどこの年が創刊ラッシュのピークであったことが分かる・・・・・・。


ところで学研からファミコン専門誌が発売になっていたなんて聞くと、私はちょっと意外な感じがする。


学研といえば我々の世代からすると、「学研のおばちゃん」が自転車で家まで配達してくれていた、学年誌の「科学と学習」や、本棚にズラリと並べられていた「学研の図鑑」のイメージが強かった。


だから学習とは何の関係もないファミコンの専門誌を、学研が出していたなんて聞くと、個人的にはなんだかちょっと、場違いな感じがしてならないのだ・・・・・・。


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▲スーパーミステリーマガジン「ムー」は、1979年(昭和54)に学習研究社から創刊された歴史の古い雑誌である。その後、学研のグループ再編に伴い、現在はワンパブリッシングから発行されている・・・・・・。

しかし、その一方で、学研は「スーパーミステリーマガジン」と称した、オカルト専門誌の「ムー」を発売している会社でもあるのだ(現在はワンパブリッシング刊)。


ちなみに「ムー」は2023年に創刊44周年を迎え、現在も発売中の雑誌である。


それを考えると、学研がファミコン専門誌を出していたって、何ら不思議ではなかったのかもしれない・・・・・・。


で、話が少しそれてしまったが、学研から創刊された「ファミコントップ」についてである。


1986(昭和61)年、ファミコン専門誌の創刊ラッシュの中で発売された「ファミコントップ」なのだが、思うように売り上げが伸びて行かず、なんとたったの4号で休刊に追い込まれることになってしまった。


これは当時10誌近くあったファミコン専門誌の中で、最も短命な雑誌だったといえるだろう。


さすがにこれだけライバルが多いと、他誌との差別化というか、独自色がよほどはっきりとしていないと、競争に勝つことは難しかったということなのだろう。


しかし、学研がすごかったのは、これでファミコン専門誌から即撤退とは考えていなかったことだ。


じつはファミコントップの休刊から2年後に、「最強ゲーム情報誌」と称して、「ファミコンBEST」というムック本を新たに創刊したのだ。


前身の「ファミコントップ」が、たったの4号で休刊に追い込まれたにも関わらず、それに懲りることなく、「最強ゲーム情報誌」を発売してしまうあたり、怖いもの知らずにも程があるといえよう。


しかし、この「ファミコンBEST」も6号が刊行された後、またしても休刊へと追い込まれることになってしまった。


ちなみに1986(昭和61)年に4号だけ発売され、その後、休刊となってしまった「ファミコントップ」は、現在では古書店などでは、高値が付けられて売られているそうだ。


雑誌は取っておく人が少なくて、現物がほとんど残っていないことがその理由のようだ。


人気が出ずに売り上げが伸びず、早々に休刊へと追い込まれた雑誌が、数十年後にこんなに高値で取引されるようになるなんて、当時は誰も想像もしていなかった未来だろう・・・・・・。



2023年7月23日 (日)

カントウタンポポとセイヨウタンポポ

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▲野原一面に群生している「カントウタンポポ」の群落。ちなみに私が子供の頃に読んでいた図鑑には、「日本タンポポ」という大きな括りで紹介されていて、地域ごとの詳しい分類まではされていなかった・・・・・・。

私が子供の頃(昭和50~60年代)、近所で見られるタンポポは、外来種のセイヨウタンポポがほとんどだった。


セイヨウタンポポはヨーロッパ原産の外来種で、今からおよそ150年前に、食用として日本へ渡来して来たといわれている。


で、当時は住宅地の道端で見られるタンポポは、このセイヨウタンポポばかりで、図鑑などを開くと、セイヨウタンポポに駆逐されて、日本の在来タンポポが数を減らしているようなことが書かれていた。


ところがうちの近所では、日本の在来タンポポが全く見られないという訳ではなかった。


野原や開発に取り残されている土手、雑木林などでは、在来種のカントウタンポポが大きな群落を作って生えていて、逆にそこにはセイヨウタンポポの姿はなかった。


その光景を見る限りは、とても在来種のカントウタンポポが、セイヨウタンポポに駆逐されているようには見えなかった・・・・・・。


そしてこれは大人になってから知ったことだが、じつはこのことにはちゃんとした理由があった。


じつはカントウタンポポが結実するためには、他の個体の花粉が必要になる。


このため、カントウタンポポが増えて行くためには、同じ場所にたくさんの個体が群生していた方が都合がいいのだ。


そして確実に花粉を受粉してもらうためには、たくさんの昆虫が生息している、野原のような環境の方が望ましい。


一方のセイヨウタンポポは受粉をしなくても、単体で種子を作ることが出来るため、わざわざ群生をする必要はない。


このため、住宅地のコンクリートの隙間などに、点々と生育していても、全く問題はないのだ。


そしてこのような環境では、他の植物と競合することが少ないという利点がある・・・・・・。


また、野原では初夏を迎えると、他の草が一気に伸び始め、タンポポなど背の低い草は下の方に埋もれてしまい、光合成が出来なくなってしまう。


しかし、カントウタンポポは、夏に葉を落として夏眠をする性質があり、春に飛ばした種子も、夏の暑い盛りを避けて発芽する。


そして周りの草が枯れ始めた頃に目覚めて、葉を伸ばし始めるのだ。


だから夏の暑い時期に、周囲を草に覆われてしまっても、カントウタンポポにとっては、特に問題はないということになる。


一方、セイヨウタンポポにはこのような特性がないため、野原などには入り込みにくいということになる・・・・・・。


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▲カントウタンポポは花が終わる頃になると、周囲を背の高い草に覆われてしまい、光合成が出来なくなってしまう。しかし、カントウタンポポには夏眠の性質があり、特に問題はない・・・・・・。

当時の図鑑や身近な自然を紹介した読み物には、「セイヨウタンポポに駆逐されて、日本の在来タンポポが数を減らしている」と書かれていた。


しかしそれは、セイヨウタンポポに駆逐されてというよりも、開発によってカントウタンポポが自生する、里山や野原がなくなって行っていることの方が、むしろ問題だったようである・・・・・・。


ところで、私は子供の頃に、わざわざ野原に行って、在来種のカントウタンポポを1株掘って来て、庭に植えて育てていたことがあった。


住宅地の道端ではカントウタンポポは見られなかったので、身近な場所にカントウタンポポが生えていれば、ちょっと人に自慢出来ると思っていたのだ。


で、私は庭に植えたカントウタンポポに肥料まで与えて大切に育てていた。


するとカントウタンポポは夏に葉を枯らして、夏眠するどころか、まるでホウレンソウのごとく大きな葉を繁らせ、どんどん巨大になって行った。


その様子は母に、「なんだかこのタンポポ美味しそうだね」と言わしめたほどである。


当時わたしはその生長具合を見て、「肥料が効いて来たんだな、しめしめ・・・」ぐらいにしか思っていなかったのだが、今こうして考えてみると、家の庭では他の草に光合成を妨げられるようなことはないのだ。


それに当時住んでいた家には、見上げるほどの大きなヤブツバキの木があって、夏に涼しい日陰を作ってくれていた。


これがカントウタンポポの生長にはよかったのかもしれない・・・・・・。


ちなみにこれまでずっと、在来種のタンポポのことを、「カントウタンポポ」と書いて来たのだが、当時の子供向けの図鑑には、在来種のタンポポは、「日本タンポポ」という大きな括りで紹介されていた。


このため子供の頃の私は、自分の住んでいる地域に自生している在来タンポポが、「カントウタンポポ」であることは知らなかった・・・・・・。


翌年の春、庭のカントウタンポポは、まるで花束のようにたくさんの花を咲かせた。


私は「友達に自慢するならいまだ!」とばかりに、「うちには日本タンポポの大株があって、いまたくさんの花を咲かせているんだ!」と、胸を張って話をした。


しかし残念なことに、友達は誰一人として、日本タンポポとセイヨウタンポポの違いが分からず、まずそこから説明を始めなければならなかったのだった・・・・・・。



2023年6月17日 (土)

「ゲームボーイ」という名のファミコン専門誌

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▲任天堂から携帯用ゲーム機の「ゲームボーイ」が発売になったのは、1989(昭和64/平成元)年4月のことだった。画像は初代のゲームボーイで、後発の機種に比べるとかなり大きく厚みがあった・・・・・・。

インターネットがまだなかった時代、ゲームソフトの情報提供は雑誌の役割だった。


当初、コンピューターゲームの主役はパソコンだったが、1983(昭和58)年7月15日にファミコンが発売になったことで、その流れは大きく変わって行った。


特に1985(昭和60)年から1986(昭和61)年にかけては、ファミコンの出荷台数のピークで、1985(昭和60)年は374万台、1986(昭和61)年は390万台が出荷されている。


そしてこれを契機にファミコン専門誌が次々と創刊されて行くことになったのである。


いまでは考えられない話だが、最盛期にはなんと10誌ものファミコン専門誌が出版各社から発売になっていた。


そんなファミコン専門誌だったのだが、現在でも発売されているのはわずか1誌だけで、他は全て休刊になってしまっている。


あの時代を知っている者としては、なんとも寂しい限りである・・・・・・。


で、今回は当時発売されていたファミコン専門誌の中から、あえてメジャーとはいえなかったものを選んで、面白いエピソードをご紹介してみたいと思っている。


日本初のファミコン専門誌、「ファミリーコンピューターMagazine(徳間書店刊)」が発売になったのは、1985(昭和60)年7月のことだった。


そしてこの年の12月、それを追いかけるようにして、「ゲームボーイ(マガジンボックス刊)」という雑誌が発売になった。


ちなみにこの雑誌、「ゲームボーイ」とはいうものの、創刊当時に扱っていた情報は、あくまでもファミコンのゲームソフトについてだった。


それもそのはず、「ゲームボーイ(マガジンボックス刊)」が創刊された当時は、「任天堂の携帯用ゲーム機のゲームボーイ」はまだ発売されていなかった。


ちなみに任天堂から携帯用ゲーム機のゲームボーイが発売になったのは、1989(昭和64/平成元)年4月のことで、「ゲームボーイ(マガジンボックス刊)」の創刊から、じつに3年4ヶ月後のことだったのだ。


ということは、もはやいうまでもないが、「ゲームボーイ(マガジンボックス刊)」という誌名は、特定のゲーム機のことを指しているのではなくて、単純に「ゲーム少年」という、そのまんまの意味だったということになる。


いま考えれば、誌名に「ファミコン」の文字は一切なく、なんとも斬新なネーミングの雑誌だったといえるだろう・・・・・・。


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▲ゲームボーイ(マガジンボックス刊)では、ライバル誌のファミコン通信(↑)の人気企画「ガバス」を集めて、ファミコン通信編集部に、編集者が自ら出向いて景品をもらいに行くという、ぶっとんだ企画もやっていた・・・・・・。

ところで任天堂は、携帯用ゲーム機の「ゲームボーイ」を発売する際に、ゲームボーイというファミコン専門誌がすでに存在していることは、さすがに知っていただろう。


なにしろ任天堂のファミコンのゲームを紹介してくれている雑誌なのだ。


知らない訳がないだろう。


それにも関わらず任天堂は、自社の携帯用ゲーム機に、ゲームボーイという名前を付けたことになる訳だ。


普通だったら、トラブルを避けるという意味でも、他の名前の候補に変更することを検討すると思うのだが、結局任天堂は最終的にゲームボーイという名前に決定している。


いまとなっては、そのことを知る者はもうほとんどいないが、当時のゲーム業界には、任天堂の携帯用ゲーム機が登場する以前から、「ゲームボーイ」はすでに存在していたのだ。


そしてその「元祖ゲームボーイ」はゲーム機などではなくて、当時まるで雨後の筍のごとく創刊されていた、ファミコン専門誌の1つだったのである・・・・・・。


ところで、この「ゲームボーイ(マガジンボックス刊)」という雑誌だが、「誌面にそんな広告出してもいいの?」と思うような、かなりアウトローな商品を取り扱う、怪しい業者の広告を堂々と出していることでも知られていた。


例えば聞いたこともないような、ゲームソフトの買取業者の広告だったり、コピーツールの通販業者の広告を、毎号、当たり前のように掲載していた。


これらはメジャーなファミコン専門誌では、全く見ることのない広告だったので、ファミコン専門誌としてはかなり異彩を放っていたといえるだろう・・・・・・。


また、ゲームボーイ(マガジンボックス刊)では、新作ゲームの紹介記事以外にも、ライバル誌の「ファミコン通信」の人気企画でもあった「ガバス」を読者から広く募り、ファミコン通信の編集部に編集者がわざわざ出向いて、景品をもらいに行くという攻めた企画もやっていた。


ちなみに「ガバス」とは、お便りが採用されると貰える、ポイント付きのチケットのようなもので、一定のポイントのガバスを編集部に送ることで、希望の商品と交換することが出来た。


きっと、ファミコン通信の編集者たちも、「そんなことする~?」と驚いたに違いない。

 

ファミ通は現在も発売されている、唯一の「家庭用コンピューターゲーム専門誌」だが、編集者の世代交代も進み、きっと当時のことを知っている人はもう誰もいないだろう。


だからこんなことがあったということをリアルに知っている者は、もう当時の読者だけになってしまっているはずだ。


雑誌を作っている編集部の人間よりも、読者の方がその歴史に詳しいなんて、なんだか妙な話である・・・・・・。


そんな「ゲームボーイ(マガジンボックス刊)」だったのだが、時代の流れには逆らえず、1994(平成6)年に休刊になってしまったのだった・・・・・・。


2023年5月 6日 (土)

ファミコン専門誌

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▲「ファミリーコンピューターMagazine」は、ゲームの攻略記事がとても充実している雑誌だった。そして画像のような攻略本サイズの付録がよく付いて来ていた。この付録を目当てにファミマガを買っていたという人も少なくないはずだ・・・・・・。

インターネットがまだなかった時代、ゲームソフトの情報提供は雑誌の役割だった。


当初、コンピューターゲームの主流はパソコンだったが、1983(昭和58)年7月15日にファミコンが発売になったことで、その流れは大きく変わっていった。


特に1985(昭和60)年から1986(昭和61)年にかけては、ファミコンの出荷台数のピークで、1985(昭和60)年は374万台、1986(昭和61)年は390万台が出荷されている。


そしてこれを契機に、いわゆる「ファミコン専門誌」が次々と創刊されていくことになった。


今では考えられない話だが、最盛期にはなんと10誌ものファミコン専門誌が出版各社から発売になっていたのである・・・・・・。


1985(昭和60)年7月、日本初のファミコン専門誌として誕生したのが、「ファミリーコンピューターMagazine」だった。


「ファミリーコンピューターMagazine」を刊行した徳間書店は、当時、任天堂から発売になるゲームソフトの、取扱説明書の編集も任されていた。


また、任天堂はファミコンソフトの攻略法や楽しみ方を解説する書籍、いわゆる「攻略本」の出版委託契約を徳間書店と結んでいた。


当時はゲームの攻略本を買うと、徳間書店刊行のものがやたらと多かったのだが、どうやらそのような理由があったからのようだ。


そんなこともあって、「ファミリーコンピューターMagazine」は、ゲームの攻略記事がとても充実している雑誌だった・・・・・・。


そんな「ファミリーコンピューターMagazine」だったのだが、「ファミコン通信」にじょじょにシェアを奪われて行き、1998(平成10)年3月発売の5.6月合併号をもって、ついに休刊となってしまった。


余談だが休刊前に一時ファミマガは、NINTENDO64のゲームを中心に取り扱った、「ファミマガ64」に誌名を変更していた時期があった。


しかし、当時の任天堂は誰が見ても迷走中で、NINTENDO64そのものがヒットしなかった。


結果的にこれに付き合わされる形となり、ファミマガは休刊へと追い込まれることになったのだった。


正にタッグを組む相手を間違えたとしか言いようがない休刊劇だったといえよう・・・・・・。


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▲当初、「ファミコン通信」の表紙には、マスコットキャラクターの「ネッキー」が毎号のように登場していた。しかし、時代の流れと共に、アイドルが表紙になったり、ゲームのキャラクターが表紙なったりするようになり、その存在感はじょじょに薄れて行った・・・・・・。

1986(昭和61)年6月には、「ファミコン通信(アスキー)」が創刊された。


ちなみにこのファミコン通信、現在では「ファミ通」に誌名が変わっているが、現在も生き残っている唯一の「家庭用コンピューターゲーム専門誌」ということになる。


そしてファミ通のすごいところは、誌名を短縮したものの、未だに「ファミコン」の名前を残してくれていることだろう。


前述のように「ファミ通」は、創刊から2000年3月までは、アスキーから発売になっていた。


しかし、その後いろいろあって、現在の発売元はKADOKAWAということになっている。


ちなみにKADOKAWAといえば、昭和の頃はライバル誌の「マル勝ファミコン」を発売していた会社である。


そしてその「マル勝ファミコン」は、時代の流れに逆らえず、1997(平成9)年に休刊に追い込まれている。


当時「マル勝ファミコン」の編集部で働いていた人たちは、こんな皮肉な未来がやって来ようなどとは、きっと思ってもみなかっただろう。


じつは「ファミ通」に関しては、いろいろと感慨深い思い出があるので、いずれまた単独のエピソードとして書いてみたいと思っている・・・・・・。


「ファミコン通信」と同じ年に、「ファミコン必勝本」も誕生している。


「ファミコン必勝本」はJICC出版局、現在の宝島社が発売するファミコン誌だった。


じつはこの雑誌の前身は、別冊宝島シリーズ「ファミリーコンピューター必勝本」というムック本だったのだそうだ。


ムック本といえば、宝島社の代名詞と言っても過言ではなく、いま考えれば「なるほどな」と思う。


で、「ファミコン必勝本」で驚いてしまうのは、なんとオールカラーの誌面にも関わらず、250円という低価格であったことだろう。


これは当時の小中学生にとっては、とてもありがたい価格設定であったに違いない。


そんな「ファミコン必勝本」だったのだが、時代の流れには逆らえず、1998(平成10)年5月1.15日合併号をもって休刊となってしまった・・・・・・。


「ファミコン通信」のところでも、ちょっとご紹介しているが、1986(昭和61)年4月には「マル勝ファミコン(角川書店)」が創刊されている。


「マル勝ファミコン」は、ファミコン専門誌が発売される以前からあった、パソコンゲームの専門誌、「コンプティーク」の1コーナーから独立して誕生した雑誌だった。


じつはこのような形で誕生したファミコン専門誌は、「マル勝ファミコン」だけではなく、あの「ファミコン通信」も「ログイン」というパソコンゲーム専門誌の1コーナーが独立して創刊されたものだった。


「マル勝ファミコン」は、1990(平成2)年11月にスーパーファミコンが発売になると、1991(平成3)年4月に誌名を「マル勝スーパーファミコン」に変更している。


さらに1996(平成8)年にも誌名を変更しているのだが、この時の誌名は誰もが首をかしげる「マル勝ゲーム少年」だった。


当時この雑誌を実際に手に取った人は、きっと「こんな誌名じゃ、絶対売れねぇ・・・」と思っていたはずだ。


なぜなら誰が見ても、「やっちまった感」が半端なかったからである。


そしてその予想通り、「マル勝ファミコン」は、1997(平成9)年に休刊することとなったのだった・・・・・・。


今回ご紹介したファミコン専門誌は、当時はどこの書店にも置いてあるようなメジャーな4誌だった。


しかし、ネタとして本当に面白いのは、じつは「メジャーではなかった方」なのだ。


そんな訳でそちらの方も、そのうちご紹介してみたいと思っている・・・・・・。


2023年1月12日 (木)

昭和の恐竜の復元図

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▲昭和の恐竜の復元図をもとに立体化したティラノザウルス。昔の復元図の恐竜は、まるでウルトラマンに出て来る怪獣のように直立していた・・・・・・。

昭和の頃、図鑑に出ていた恐竜は、人のように直立した姿で描かれていた。


例えばティラノザウルスは、尻尾がだらりと垂れ下がり、先端が地面についていて、両脚と尻尾の3点で大地に立っているようなイメージだった。


いま考えると、これはかなりの違和感があるのだが、当時はそれが当たり前だったのである。


そしてこの恐竜の「姿勢」は、当時のゴジラやドラゴン、ウルトラマンなどに登場する怪獣の姿にも大きな影響を与えていた。


これはそれらが当時の恐竜の復元図を参考にして描かれていたからだろう・・・・・・。


また面白いところでは、ネッシーを始めとする首長竜型のUMA (未確認動物)の想像図も、当時の恐竜の復元図にならって、当初は首が直立する形で描かれていた。


1934年にイギリス「デイリー・メール紙」に掲載された、ネッシーのあの有名な写真も正にそうだった。


そしてそれは、いま見ると全くリアリティがないのだが、当時はそれを信じて疑わず、熱狂している人たちがたくさんいたのである・・・・・・。


そして研究が進み、現在では恐竜の復元図は当時と比べて大きく変化した。


私たちが知らないうちに、あの怪獣のような立ち姿の恐竜たちは見ることはなくなっていたのだ。


子供の頃、夢中になって読んでいた恐竜図鑑は、ボロボロになって捨ててしまったが、いま思えば取っておけばよかったなぁと思う・・・・・・。


あの直立した恐竜の姿は、生物の復元という意味では、結果的に間違っていたのだが、恐竜をキャラクターとして見た場合、あれはあれでなかなか味があってよかったと思うのだ。


現在の復元図を元に、恐竜の着ぐるみを作って中に人が入ったら、きっとかなり無理な姿勢を強いられるだろうが、昔の復元図の恐竜なら、少しだけ前傾姿勢にはなるものの、ほとんど普通に立っていればそれでいいのだ。


イベントで大活躍出来るのは、誰がどう見ても後者に違いない・・・・・・。


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▲恐竜がどんな色をしていたのかは、あくまでも想像でしかなく、はっきり言ってよく分かっていない。パンダだって、すでに絶滅していて、化石しかない状況だったら、だれもあんな白黒模様を想像しないだろう・・・・・・。

それに昔の復元図の恐竜は、爬虫類というよりも、イメージとしては怪獣で、その姿はなんだか滑稽に見えてかわいかった。


人はレッサーパンダや、プレーリードック、ミーアキャットなどが立ち上がっているところを見ると「かわいい」と感じるが、これは自分と同じような姿勢で立っている動物に、親しみを感じているからだろう。


私が昭和の恐竜の復元図に魅力を感じるのは、そんな理由があってのことなのかもしれない。


そんな訳で、私は昭和の恐竜の復元図も決して嫌いではない・・・・・・。


そしてこれが最近の復元図になると、恐竜はどの種もかなりの前傾姿勢になり、長い尾は地面につくことはなく、後方にピンと伸びて宙に浮いている。


素人目にはこんなに長く太い尾を、常に宙に浮かせたままキープしていたら、かなりつらいのではないかと思うのだが、身体のバランスを取るためには、どうやらこの方が有効らしい。


そうは言ってもこの体勢は、なんだか筋トレの「片手片足プランク」をしているみたいで、見ているだけできつくなって来るのだが、それって私だけだろうか・・・・・・。


また、私が子供の頃に図鑑で見たティラノザウルスは、全身が硬い鱗で覆われていて、体色は茶色一色に描かれていた。


ところが最近のティラノザウルスの復元図を見ると、なんと体の一部に羽毛が生えているのである。


しかし、羽毛の色柄まではさすがに特定出来ないらしく、それぞれの復元図を描いた人によって、様々に表現されている。


このように羽毛の色柄については、いまのところは想像の域を出ないのだが、「羽毛」というからには、インコのように鮮やかな赤や青、緑や黄色だった可能性も決してゼロではないだろう。


さらに言うなら、もし仮にティラノザウルスの頭部が、羽毛にきれいに覆われていたとしたら、オカメインコやキバタンなどに見られる、冠羽のようなものがあった可能性だってあるだろう。


また、オカメインコのように、頬に丸く頬紅を注したような模様が付いていた可能性だってあるはずだ。


動物や鳥の色柄は、骨の化石からでは判断が付かない。


パンダだって、はるか昔に絶滅していたら、誰もあんな模様を想像したりはしなかったはずだ。


獰猛なワニのような顔だと信じて疑わなかったティラノザウルスに、じつは可愛らしい冠羽があって、ほっぺたに頬紅を注したような、丸い模様が付いていたら、きっとそのイメージは180度変わるだろう。


そして個人的にはその復元図は、ぜひとも昭和の頃に見られた、あの直立型のティラノザウルスで再現して欲しいと思うのだ。


ちょっとその姿を想像してみると、なんだかバカ殿様の恐竜版のように思えてならないのだが、それってやっぱり気のせいだろうか・・・・・・。

2022年12月25日 (日)

ドラえもんはなぜ人の食べ物を食べるのか?

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▲ドラえもんの大好物のどら焼き。ところで素朴な疑問だが、ドラえもんはロボットなのになぜ人の食べ物を食べるのだろうか?

ドラえもんは野比家で、家族といっしょに食卓を囲み、朝ごはん、昼ごはん、晩ごはんの一日三食を、毎日欠かさずにきっちりと食べている。


しかも、のび太といっしょになって、3時のおやつまでぺろりと平らげているのである。


しかし、冷静に考えてみると、これってなんだかおかしくはないだろうか。


そもそもドラえもんはロボットなのだ。


いったいなんのために人の食べ物を食べているのだろうか。


そして食べたものはいったいどこへ行ってしまうのだろう・・・・・・。


人をはじめ動物なら、食べたものから栄養を摂取し、不要なものは体外へ排泄する。


しかしドラえもんはロボットなので、排泄なんてしないはずだ。


ところが長い連載の中で、たった1回だけドラえもんがトイレでおしっこをしているシーンが描かれているのだ。


ちなみにうんこの方に関しては、直接的にも間接的にも、そのような描写は一度もない。


これはいったいどうとらえたらいいのだろう・・・・・・。


じつはドラえもんというロボットは、電気で動いている訳ではないようなのだ。


「てんとう虫コミックススペシャル最新ドラえもんひみつ百科1(1998年2月発売)」など、複数のドラえもんの関連書籍によると、「ドラえもんが食べたものは全て分解されて、原子炉でエネルギーに転換されるので排泄は必要ない」とはっきりと書かれている。


そしてこれこそが、「ドラえもんが食べたものはどこへ行くのか?」と、「なぜ、ドラえもんはうんこをしないのか?」の答えになるだろう。


また、私が子供の頃(昭和の頃)、親に買ってもらった「ドラえもん11巻(てんとう虫コミックス)」には、「ドラえもん大事典」というページがあって、ドラえもんの左胸のあたりには「原子ろ」が搭載されていると書かれていた。


そしてその解説を読むと、「何を食べても原子力エネルギーになる」と、はっきりと書かれていたのだ。


当時はそれを読んで、「へ~、ドラえもんって原子力エネルギーで動いているんだ~。さすが未来のロボットだな~。すごいな~」と、ただひたすら感心していたのを覚えている・・・・・・。


ところが今から10年ほど前に、どういう訳かその記述に修正が加えられた。


ドラえもんの図解などはそのままなのだが、左胸付近に記されていた解説文にどうも空白が目立つのだ。


昭和の頃に私が親に買ってもらった単行本11巻では、「原子ろ 何を食べても原子力エネルギーになる」と書かれていた部分が、「原子ろ」の文字が消されて「空白」になり、「(空白)何を食べても(空白)エネルギーになる」と修正されているのだ。


「原子ろ」と「原子力」の文字が消されたことになる訳だ。


これはいうまでもなく、東日本大震災における原発事故の影響なのだろう・・・・・・。


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▲ドラえもんが人の食べ物を食べてエネルギー補給をする理由は、どうやらタイムマシンが開発されたことと関係がありそうだ・・・・・・。

ところでこれは私が子供の頃にはなかった後付けの設定だが、2001年6月発売の「決定版ドラえもん大事典」では、「ドラえもんの胃ぶくろは原子胃ぶくろで、食べたものはそこで分解、高性能エネルギー炉に送り込まれ、完全に消化・吸収してエネルギーにしてしまう」と書かれている。


これは東日本大震災の10年前に出版された書籍である。


ということは、ドラえもんの「原子ろ」は、正確には「原子胃ぶくろ」と「高性能エネルギー炉」で構成されていて、ウランやプルトニウムを核分裂させてエネルギーを発生させる、いわゆる「原子炉」とは全くの別物であるということになるだろう。


それならば何もわざわざ、前述のように、「原子ろ」や「原子力」の記述を消す必要なんてなかったのではないだろうか・・・・・・。


ところでドラえもんはなぜわざわざ、人の食べ物を食べてエネルギーに変換するなどという、面倒くさい仕組みになったのだろう。


22世紀の技術なら電池だって、きっと今よりもずっと高性能になって、長持ちするようになっているだろう。


電池でないにしても、ドラえもんを動かすためのエネルギーパックは、未来の技術なら手のひらサイズほどの小さなものを、身体のどこかにあるスロットにスッと差し込むだけですむはずである。


それにも関わらず、ドラえもんはわざわざ家族といっしょに、朝ご飯、昼ご飯、晩ご飯の、一日三食をきっちりと食べて、エネルギーを補給しているのである。


じつはこれについては、22世紀になって、タイムマシンが開発されたことが、大きく影響しているようだ。


ドラえもんは過去へ行くことも出来るので、どんなに古い時代にさかのぼっても、その時代でエネルギーを補給出来なければ意味がない。


長期滞在をすることになった場合、電池切れのようなことが起きたらシャレにならないからだ。


そこで手っ取り早く、その時代でエネルギー補給が出来る手段として、人の食べ物を食べてエネルギーに変換するという方法が採用されたのだろう。


そしてこの方法ならば、どの時代でも対応出来るという利点がある・・・・・・。


最後にドラえもんがおしっこに行く理由についてだが、前述の「決定版ドラえもん大事典」によると、「子守用ロボットのドラえもんがトイレに行けば、きっと子供も一緒にトイレに行くはず」と書かれている。


まあ、水分はエネルギーにはならないので、体外へ排出しているという意味もあるのだろうが、それをわざわざトイレで行うことで、子供のトイレのしつけにも一役かっているということなのだろう・・・・・・。


2022年10月26日 (水)

昭和の宇宙人とドラえもん

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▲昭和の宇宙人のイメージはこんな感じだった。もともとはもっと薄気味の悪い姿をしていたのだが、次第にデフォルメされてキャラクターとしてのタコのイメージに近付けられていった・・・・・・。

みなさんは宇宙人と言ったら、いったいどんな姿を想像するだろうか。


現在では多くの人がイメージする宇宙人は、頭部が大きく華奢な身体をした、いわゆるグレイタイプのヒューマノイドなのではないだろうか。


しかし、私がまだ幼かった頃、子供向けの「ふしぎ大百科」や、「ミステリー大百科」などに紹介されている宇宙人は、決まってタコのような姿をしていた。


誤解のないように書いておくが、「タコのような姿」と言っても、本物のタコにそっくりという訳ではない。


では、具体的にはどんな姿をしていたのかというと、頭部の形状はドラクエに登場するモンスターの、「ホイミスライム」にそっくりだった。


ホイミスライムはこの宇宙人をモデルにしたのではないかと思えるほどだ。


そして頭部の下半分に顔の全てのパーツが集中して付いているような印象だった。


目は人間と同様に2つだったが、そのサイズは極端に大きく、頭部の下半分の大半を占めていた。


そして鼻は穴だけが2つあり、鼻柱は見当たらなかった。


口は唇はなくてスリット状で、その大きさは極端に小さく、2つの鼻の穴の幅と同程度といったところか。


そして頭部の下には首や胴体などは一切なく、頭から直接、うどんのようなひも状の細い足がニョロニョロと無数に伸びていた。


そしてその長さは尋常ではなく、頭4~5個分ほどの長さが直立した後、足元にまるで「ざるそば」のように、クネクネとまとまっていた・・・・・・。


で、当時の子供向けの本には、この宇宙人は「火星人」として紹介されていた。


そして火星人がなぜこのような姿をしているのか、その理由についてもちゃんと書かれていた。


まず、火星人は地球人とは比べ物にならないくらい知能が発達しているので、脳が大きく進化しており、その結果として頭部が大きくなった。


また、目については、火星の砂嵐の中でも、遠くまで見渡せるように大きく進化しており、更に砂で目を傷めないように、フィルターのようなもので、しっかりとガードされている。


そして火星人は栄養素しか摂取しないため、口は極端に小さく、消化器官に関しては退化してしまっている。


このため内臓の入れ物としての胴体は必要がなく、頭部から直接足が生えているのだという。


そして火星の重力は地球の1/3しかないため、筋肉の付いた屈強な脚は必要がなく、その結果、うどんのようなニョロニョロとしたひも状の足になっているとのことだった・・・・・・。


で、その絵を見る限り、私には火星人がタコに似ているとは、これっぽっちも感じられなかったのだが、どういう訳かその後、「火星人はタコ」というイメージが、世の中に定着して行くことになるのだ。


そしてご説明して来たような、リアルな火星人の姿は知らないが、タコのような姿をした、「火星人もどき」なら知っているという人が、どんどん増えて行ったのだ・・・・・・。


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▲昭和の宇宙人にはこのような光線銃も付き物だった。そしてUFOには丸い窓があり、このようにカパッと開くアナログな出入り口が定番だった。

では、「火星人はタコ」というイメージは、いったいどこからやって来たものなのだろう。


で、当時の記憶を少しずつ辿ってみると、私にはどうも当時の漫画やアニメが、その原因を作ったような気がしてならないのだ。


当時の漫画やアニメでは、自分の住んでいる町にUFOが飛んで来て、中から宇宙人が出て来て、「コンニチハ」なんてシーンがよくあった。


で、この宇宙人がタコだったのである。


漫画やアニメに宇宙人を登場させる場合、「ふしぎ大百科」や「ミステリー大百科」に載っているような、リアルな薄気味の悪い見た目ではちょっとまずい。


子供が親しみを持てるような、「キャラクターとしての宇宙人」でなくてはならないのだ。


そこで子供がイメージしやすい、地球上にいる似たような生物ということで、タコに白羽の矢が立ったのだろう。


火星人の特徴である大きな目はそのままに、口はキュッとすぼめられて、キャラクターとしてのタコに似せられた。


そして頭部から直接伸びていた、うどんのような無数のひも状の足は、タコのような太い足に描き直され、タコに見合うように本数が大幅に減らされた。


そして頭部の下には本来はなかった短い胴が描き加えられて、気味の悪さはなくなり、ちょっと滑稽な宇宙人のキャラクターが完成したのだ。


ドラえもんの10巻(てんとう虫コミックス)に出て来る、「ラジコン宇宙人」というひみつ道具が正にそのイメージで、当時の漫画やアニメには、このタイプの宇宙人がしばしば登場し大活躍していたものだ。


ところでドラえもんが出した「ラジコン宇宙人」だが、宇宙人のイメージがグレイに変わった現在では、グレイタイプの宇宙人に変更になっているのだろうか。


ドラえもんは「未来は変わるもの」と言っている。


原作漫画は変わることはないだろうが、アニメの方の未来は、もしかしたら変わっているのかもしれない・・・・・・。


2022年9月 8日 (木)

「オホーツクに消ゆ」と「べーしっ君」

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▲ファミコン版の「オホーツクに消ゆ」は、ただのリメイクではなくシナリオが大幅に追加されている。画像中央の黄色いシャツの女性は、パソコン版には一切登場しない、ファミコンオリジナルのキャラクターだった。そして作中では彼女と温泉で遭遇するシーンがあるのだが、そこで体に巻いているバスタオルを取り去る裏ワザが大きな話題となった・・・・・・。

画像の「北海道連鎖殺人オホーツクに消ゆ」は、1987(昭和62)年6月27日に、ファミコン用ソフトとして発売になった。


じつはこのゲームはファミコンオリジナルという訳ではなく、1984(昭和59)年12月21日にパソコンのPC-6001とPC-8801用のソフトとして、すでに発売されていたものだった。


したがって、ファミコン版の「オホーツクに消ゆ」は、そのリメイク版ということになる訳だ・・・・・・。


ちなみに「オホーツクに消ゆ」のシナリオを手掛けたのは、あのドラゴンクエストでお馴染みの堀井雄二さんで、じつは堀井さんは1980年代には、アドベンチャーゲームを3本、世に送り出していたのだ。


私は堀井さんのミステリーアドベンチャーのファンだったので、その後、堀井さんがアドベンチャーゲームを作らなくなってしまったのは、とても残念でならない・・・・・・。


ところで私は、漫画にしてもアニメにしても、「いい作品だから」と人からどんなに勧められても、絵(キャラクターデザイン)が自分の好みでないと、どうもその作品を読む(見る)気にはならない。


絵に好感が持てないと、感情移入が出来ない方なのだ。


前述のように「オホーツクに消ゆ」は、オリジナルはパソコン用のソフトだったのだが、この時のキャラクターデザインは、ファミコン版とは全く異なるもので、どちらかというとリアル路線の絵柄だった。


しかし、当時のパソコンの機能では、そのリアルな原画をそのままパソコンのグラフィックとして表現することは難しく、実際のゲーム画面は、いま考えると、かなりチープな絵だったと思う。


そして、ただチープなだけならまだいいのだが、その絵柄はかなりシュールで、子供にはまるで心霊番組を見せられているような怖さがあった。


どちらにしても、あの絵のままファミコンに移植されていたら、私は「オホーツクに消ゆ」をプレイしていたかどうかはかなり微妙である・・・・・・。


「オホーツクに消ゆ」をファミコンに移植するにあたって、ファミコン版のキャラクターデザインは、漫画家でイラストレーターの、荒井清和さんが担当されることになった。


荒井さんは当時、ファミコン専門誌のファミコン通信で、「べーしっ君」という漫画を連載していた。


「べーしっ君」はファミコン専門誌での連載ということもあって、大半はゲームネタになっていて、「ゲームなんて全く興味がない」という人が見たら、なんのことやら意味がさっぱり分からない内容だったと思う。


私は荒井清和さんのイラストのファンだったので、「べーしっ君」の単行本も持っているのだが、今これを見返してみると、ファミコン時代のゲームネタのオンパレードで、この時代のゲームを知らない人には、きっと意味が全く通じないのだろうな~と思うと、ちょっと時代を感じて遠い目になってしまう・・・・・・。


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▲当時、ファミコン通信に連載されていた「べーしっ君」。荒井さんの描くキャラクターは、ファミコン通信の読者にはとてもなじみ深いもので、ゲームにすんなり入り込むことが出来た。ちなみに荒井さんはファミコン通信のクロスレビューのコーナーの、レビュアーの似顔絵も担当されていた・・・・・・。

とそんな訳で、ファミコン版の「オホーツクに消ゆ」のキャラクターデザインは、私にはどハマりだった訳なのだが、「べーしっ君」に登場するキャラクターには、まともなデザインのキャラと、おふざけキャラがいて、私にはそのことがちょっと心配だった。


ちなみにここで言う「おふざけキャラ」というのは、鼻だけが異様に大きく描かれたキャラだったり、なぜか目だけが少女漫画風のタッチになっているキャラだったり、「そんな髪型のやつ、絶対にいね~よ」という、個性的な髪型のキャラのことを指している。


そもそも「べーしっ君」はギャグ漫画だったので、そんなおふざけキャラがいること自体はなんら不思議ではない。


しかし、シリアスなミステリーアドベンチャーに、それはどう考えても相応しくない。


しかし、蓋を開けてみれば、そんな心配はいっさい無用であった。


発表されたメインキャラクターには、そんなおふざけキャラは一人もいなかったのである。


(ま、そりゃそうだろう・・・・・・)


荒井清和さんの描く女性キャラはとても可愛らしく魅力的で、オリジナルのパソコン版のイメージをガラリと変えてくれた。


パソコン版の「オホーツクに消ゆ」は、刑事ドラマを意識したのか、劇画風タッチの絵柄となっていて、一般的に見てちょっととっつきにくい印象だった。


それがファミコン版になって漫画風のタッチに変更になって、とても親しみやすい印象になったのだ。


しかし、「ミステリーとして見た時にそれはどうなの?」という心配の声も確かにあった。


しかし、いざ物語が始まってみれば、荒井さんのキャラクターはとても生き生きとして、「オホーツクに消ゆ」のストーリーにぴったりとフィットして、何の違和感も感じなかったのである・・・・・・。


ところでファミコン版の「オホーツクに消ゆ」には、隠れキャラとして「べーしっ君」に登場するキャラクターがチョイ役で登場していた。


網走刑務所の前では主人公の「べーしっ君」がしれっと歩いていたし、夕張中央炭鉱では、なんと電気屋の主人が「目黒二五六(べーしっ君の父)」だった。


そして札幌駅のホームでゲンさんが襲われるシーンでは、「番長ヨシオ(べーしっ君の学校の番長)」がちゃっかり登場している。


そしてこの3人、じつは前述のおふざけキャラの範疇に入るのだ。


しかも、番長ヨシオに至っては、原作の通り、顔に「バカ」としっかり書かれている。


シリアスなミステリーアドベンチャーに、こんなお遊び的要素をぶっこんで来るなんてさすがである。


で、ファミコン版の「オホーツクに消ゆ」発売後には、なんと漫画の「べーしっ君」の方にも、「オホーツクに消ゆ」のキャラクターが友情出演している。


どちらのキャラクターも荒井さんが描いているので、怖いほどなんの違和感もなかったのは、もはや言うまでもない・・・・・・。


2022年7月 4日 (月)

ハレー彗星パニック

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▲昭和50~60年代は「ハレー彗星」の天文ショーが大変な話題になっていた。書店には「ハレー彗星コーナー」が出来て、画像のような本がたくさん置かれていた・・・・・・。

先日、押し入れの整理をしていたところ、「彗星 ほうき星のひみつ」という本が出て来た。


これは私が子供の頃に買ってもらった本で、50数ページ程度のごく薄い本なのだが、彗星についてとても分かりやすく解説されていた。


この本は大半のページにカラーの天体写真がふんだんに使われていて、ただ写真を眺めているだけでも十分に楽しめる内容になっていた。


巻末の発行年月日を見ると、「1976年3月初版発行 1983年11月第27刷」と記されている。


じつは当時は1985(昭和60)~1986(昭和61)にかけてやって来ると言われていた、「ハレー彗星」が大変な話題になっていた時期で、テレビや新聞でしばしば特集が組まれたりしていた。


そしてこれは出版業界も例外ではなく、彗星をテーマにした本が次々に出版されるようになり、大きな本屋に行くと、いつの間にか彗星コーナーが出来ていたりしたものである。


私が買ってもらったこの本は、「1976年3月初版発行」とあるので、ハレー彗星ブーム以前に発行されたものだが、ハレー彗星についてもかなりのページ数を割いて解説されていた。


そして当時はこのような子供向けの本の売り場にも、彗星コーナーは設置されていて、天体望遠鏡や星座早見盤が、本といっしょに展示されていたのを覚えている・・・・・・。


ハレー彗星は約76年周期で地球に接近する短周期彗星で、公転周期は75.3年といわれている。


前回の回帰は1986(昭和61)年で、次回は2061年の夏に現れると考えられている・・・・・・。


で、このハレー彗星、前々回に当たる1910(明治43)年に回帰した時には、日本をはじめ世界中で大パニックが起きたといわれている。


当時の天文学者がハレー彗星の動きを計算してみると、近日点を通過した後の1910(明治43)年5月19日に、太陽とハレー彗星、そして地球が一直線に並ぶことが分かったのだ。


彗星の尾は太陽と反対方向に伸びるので、この時にハレー彗星の尾の中に地球が入ってしまうことになる訳だ。


彗星の尾には有毒のシアン化合物が含まれていることから、当時の新聞などは、「地球上の生物は全て窒息死する」と書き立てて、瞬く間に世間に噂が広まって行ったという・・・・・・。


また、他にも「地球上の空気がハレー彗星に持って行かれ、5分間だけ空気がなくなる」なんてデマも広まっていたそうだ。


どうでもいいが、「空気がなくなる」と言っているのに、なぜ「5分間だけ」という条件付きなのか意味がさっぱり分からない。


空気がなくなるのが、「5分間だけ」ということもあって、それならなんとかしのげるだろうと考えて、自転車のチューブを買い占める人もいたのだそうだ。


どうやらチューブの中の空気を吸って、なんとか生き延びようと考えたらしい・・・・・・。


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▲私が買ってもらった本はこのぐらいのサイズ感。子供向けの本なので厚さはないが、彗星について分かりやすく解説されていて、ページ数以上に内容は濃かった・・・・・・。

自転車のチューブを買えなかった人は、桶に水を張って、息を止める訓練を始めたりしたそうだが、さすがに5分間も息を止めているのは辛いものがあり、ほとんどの人はあきらめたのではないだろうか・・・・・・。


また、息を止めていられないのなら神頼みだとばかりに、村中の人が神社でお祈りを始めたり、「どうせ死ぬのなら」と、全財産を遊びにつぎ込む者まで現れたそうだ。


「もし、万が一、何も起こらなかったら」とは考えなかったのだろうか。


そして彼らがその後どうなったのか、個人的にはぜひ知りたいところである。


このため当時は歓楽街が非常ににぎわったそうで、花柳界では「嗚呼、ありがたきホーキ星様」と、ハレー彗星が歓迎されたという・・・・・・。


また、当時は人々の混乱に乗じて、「彗星の尾が撒き散らす、シアンの毒をたちどころに解毒する」と謳った薬を売り出し、商売を始める者までいたそうだ。


いつの時代にもこういう詐欺師はいるもので、いいネタを見つけると、まるでハエのように一斉に湧いて出て来るのは現代も同様である。


しかしこの薬、小麦粉を丸めただけのニセ薬だったことがすぐにバレて、間抜けな詐欺師がアメリカであっさりと捕まっている。


じつはこの小麦粉のニセ薬、日本にも輸入されていて、「彗星丸」という名前で販売されていたそうである。
なんだか安っぽい精力剤のような名前である・・・・・・。


で、太陽とハレー彗星と地球が一直線に並ぶ、運命の5月19日がついにやって来た。


日本では午前11時22分とされていたのだが、結果的にそれらしいことは何も起きなかったばかりか、なんと彗星そのものも、影も形もみえなかったのだそうだ。


じつは彗星の尾はもともととても薄いものなので、たとえ地球がその中に入ったとしても、地球上では何も感じなかったのだそうだ。


また、太陽の前をハレー彗星が横切っても、日食のように太陽の光を覆い隠すようなことはなく、なんと透き通って見えていたのだという。


きっと、当時の人たちは、「結局、彗星は来なかった」と思っていたに違いない。


と、以上が1910(明治43)年に起きた、ハレー彗星パニックの事の顛末なのだが、「どうせ死ぬのなら」と全財産を遊びにつぎ込んだ人々は、その後いったいどうなったのだろう。


色々な文献を探してみても、その後のことについては、どこにも書かれておらず、個人的にはとても気になっている・・・・・・。

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