カテゴリー「昭和家電」の記事

2023年8月 4日 (金)

ビデオのバーコード予約とGコード

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テレビ番組の録画にビデオデッキが使われていた時代、録画予約の作業はとても面倒なものだった。


なぜかというと、ビデオデッキの録画予約は、放送日、放送時間、チャンネルなどを、全て1つ1つ手作業で入力して行かなければならなかったからだ。


だから放送日や放送時間は合っていたのに、チャンネルをうっかり入れ間違えてしまい、後で録画した番組を見てみたら、他局の裏番組が録画されていたなんてことが、当時はしばしば起きていた。


電子番組表からワンタッチで録画予約が出来る現在では、ちょっと考えられないような話である。


しかし当時はそれが当たり前だったのだ・・・・・・。


そんな面倒で入力ミスの多かった録画予約を、「単純かつ正確にやる方法はないものか?」と考えて、メーカーが目を付けたのがバーコードだった。


バーコードというと、スーパーやコンビニのレジで、商品価格の読み取りに使われている、「ピッ!」というやつを想像すると思うが、原理としてはアレと全く同じものである。


バーコード予約が出来るビデオデッキには、極太のマジックのような形をした専用のスキャナーと、バーコードが描かれたシートが付属されていた。


シートにはチャンネル、日付、録画開始時間、録画終了時間などの項目ごとに、それぞれバーコードがプリントされていた。


そしてこれをスキャナーで順番になぞって行き、それをビデオデッキに送信することで、録画予約が出来る仕組みになっていたのだ。


現在の電子番組表のように、ワンタッチという訳にはいかなかったが、それでも1つ1つ手作業で入力して行くよりは、よほど楽に感じられたものである。


しかし、このシステム、入力そのものは飛躍的に早くなったものの、日付や録画開始時間、録画終了時間を、順番に読み取って行かなければならず、チャンネルや録画時間を間違えて読み取ってしまうことがないとはいえなかった・・・・・・。


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そしてユーザーのそんな悩みを解消すべく、1992年4月に登場したのが「Gコード」だった。


Gコードはアメリカのジェムスター社が、アナログ番組の録画予約を簡単に行うことを目的として開発したものだった。


Gコードの仕組みを分かりやすく説明するなら、「アナログ放送の番組の、放送チャンネルや放送時間の情報を、独自のアルゴリズムによって、8桁の数字に変換したもの」ということになる。


で、当時は新聞のテレビ欄や、テレビ番組の情報誌には、番組ごとに必ずこの8桁の数字が掲載されていた。


で、このGコードをどのように利用していたのかというと、専門の機器にGコード(8桁の数字)を入力してビデオデッキに送信すると、番組の開始時間になるとビデオデッキが勝手に起動し、番組を録画して、番組が終わると自動的に電源を切ってくれるというものだった。


ビデオデッキがやっていること自体は、バーコード予約の時となんら変わっていないのだが、録画チャンネルや録画開始時間、録画終了時間を入れ間違えることは、これで完全になくなったといっていいだろう・・・・・・。


しかし、そんなGコードにも、弱点がない訳ではなかった。


そしてそれは、Gコード予約やバーコード予約が登場する以前からのビデオデッキの天敵、プロ野球中継だったのである。


さすがのGコードも、プロ野球中継が延長されて、番組の放送時間が変更になってしまうと、予約しておいた番組は録画されずに、他の番組が録画されてしまうことになる。


当時はプロ野球は国技といってもいいほど人気のある視聴率の取れるスポーツだった。


このためプロ野球中継は、放送時間を延長するのが当たり前で、新聞のテレビ欄には、「最大延長〇時〇分まで」とか、「試合終了まで放送します」と必ず書かれていたものだ。


帰宅後、録画しておいたドラマを見ようと、わくわくしながらビデオの再生ボタンを押す。


すると「ワンストライクツーボールからの3球目、ピッチャー振りかぶって投げました~!」などという、プロ野球の実況中継が突然流れ始めるのだ。


訳も分からず、リモコンを握りしめたまま、呆然と立ち尽くしていると、実況アナウンサーが、「〇〇〇〇の時間ですが、このままプロ野球中継を延長して放送いたします」と、衝撃的な通告をして来るのである。


ドラマのことばかり気になっていて、プロ野球中継の「最大延長〇時〇分まで」を見逃していた自分が悪いのだが、とりあえず口を突いて出る言葉は決まって、「やられたよ・・・」だった。


そして当時このような苦い経験をしていたのは、たいてい普段はプロ野球なんて見ない、若い女性たちだったのである・・・・・・。


(画像上、里山の夏の花の代名詞といえば、まずこのオニユリの花が思い浮かぶ。画像下、ニイニイゼミはじっとしているとどこにいるのか分からない・・・・・・)


2022年11月13日 (日)

昭和の乾電池事情

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▲「National」が「Panasonic」に変更になったものの、今も昭和の頃と変わらぬデザインで発売されている乾電池。そう、このデザインの乾電池はまだ売られているのだ。当時は赤い乾電池の「Hi-Top」と、黒い乾電池の「NEO Hi-Top」があった・・・・・・。

昭和の頃、乾電池といってイメージするのは、なぜか決まってナショナルブランドだった。


近所の商店街の電気屋さんがナショナルのお店だったこともあると思うが、当時うちではナショナルの乾電池以外は見たことがなかった。


コンビニやドラッグストアがまだなかった頃は、乾電池はどこでも手軽に買えるものではなくて、電気屋さんに行って買うものだったのだ。


で、私が子供の頃に、家で見慣れていた乾電池のデザインは、ズバリ上の画像のものだった。


これはパナソニックブランドに変更後のものだが、デザインは昔と何ひとつ変わっていない。


当時のものは、乾電池上部のメーカー名の入っている部分が、「National Hi-Top」と書かれている赤い乾電池と、「National NEO Hi-Top」と書かれている黒い乾電池の2種類があった。


ちなみにどちらの乾電池も、上の画像で「単1形」と書かれている部分には、当時のナショナルのロゴマークが、四角い赤地に丸い白抜きのマークで付けられていた。


私が子供の頃には、すでにどちらの乾電池も売られていたが、赤い乾電池の「Hi-Top」の方が先行して発売されていて、黒い乾電池の「NEO Hi-Top」は、「世界最高寿命の乾電池」と謳われて、その数年後に発売になったのだそうだ・・・・・・。


そして1990年代に入ると、どちらの乾電池も、「National NEO」というブランドに統一されることになった。


で、これがパナソニックブランドに変更後も引き継がれたという訳だ。


私は子供の頃からこのデザインに慣れ親しんで来たせいか、乾電池と言って思い浮かべるのは、未だに上の画像のデザインだ。


最近各社から発売になっている乾電池はどれも金ピカで個性がなくていけない・・・・・・。


ところで上の画像の乾電池は、ずっしりと重たい単1形だが、昭和の頃はこの単1形や、これより一回り小さい単2形の乾電池の出番が多かった。


懐中電灯や石油ストーブに入れる乾電池は決まって単1形だったし、目覚まし時計やラジカセには単2形を使用していた。


だから昭和の頃の懐中電灯や目覚まし時計は、サイズの割にやたらと重たかったものである。


懐中電灯なんてボディも金属製だったので、乾電池を2本入れると、子供にはまるで鉄アレイのごとく重たくて、ちょっとした筋トレになっていたのではないかと思えるほどだった・・・・・・。


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▲単1形の乾電池はとにかく大きく重かった。現在では単3乾電池を使用する機器が増えたが、昭和の頃はこの単1形と、これより一回り小さい単2形の出番が多かったのだ・・・・・・。

ところでこれまでお話して来たNationalブランドの赤と黒の乾電池は「マンガン乾電池」と呼ばれていた。


そして現在我々が日常で何気なく使用している乾電池は「アルカリ乾電池」が主になる。


「マンガン乾電池」の特徴としては、間隔を開けて使用することで、電圧が回復して長持ちすることにある。


例えば懐中電灯や様々な機器のリモコンなど、ずっと電流を流しておく必要のないものに向いている。


一方の「アルカリ乾電池」は、マンガン乾電池よりも大きな電流を流せるようになり、電池を使うおもちゃやデジタルカメラなどに向いている。


で、このアルカリ乾電池が出て来る以前は、マンガン乾電池が赤と黒に分かれていて、赤マンガンは電力を一気に必要としないものに、黒マンガンは電力を一気に必要とするものに使用するとよいとされていた。


具体的に言うなら、リモコンや懐中電灯、時計などには赤マンガン、ラジコンやストーブの点火など、パワーを必要とするものには、黒マンガンを使用することを推奨していた訳だ。


とはいうものの、当時わたしは子供だったので、そんなこととはつゆ知らず、ただの色違いぐらいにしか思っていなかった。


そう言われてみれば、家の懐中電灯の中には、決まって赤い乾電池が入っていたし、石油ストーブには黒い乾電池が入っていた。


両親がそのことを知っていたのかどうかは定かではないが、当時うちには赤と黒の2色の乾電池が、常にストックされていたことは間違いない。


ちなみに現在でも「マンガン乾電池」は売られているので、その用途によって、「アルカリ乾電池」と使い分けるのが正しい使い方といえるだろう・・・・・・。


ところで乾電池と言えば、昭和の頃に電気屋さんの前などに、乾電池の自動販売機が設置されていたのを覚えているだろうか。


ナショナルの電気屋さんの前には、ナショナルの乾電池の自動販売機、東芝の電気屋さんの前には東芝の乾電池の自動販売機が設置されていた。


乾電池は店の中でも売られているのに、なぜ自動販売機が店の前に置かれていたのか、いま考えるとちょっと疑問である。


どうせ自動販売機を設置するのなら、店から離れた場所に設置しなければ意味がないではないか。


しかし、そのような場所で乾電池の自動販売機を見かけたことは、結局のところ一度もなかったように思う・・・・・・。


2022年6月28日 (火)

昭和の懐中電灯

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▲金属製の懐中電灯から少し遅れて出回り始めたプラスチック製の懐中電灯。プラスチックになって本体は軽くなったのに、使用する電池の本数が増えて逆に前より重くなった・・・・・・。

最近の懐中電灯を手に取って見ると、昔と比べてずいぶんと小さく軽くなったものだな~とつくづく思う。


私が幼い頃に家に置いてあった懐中電灯は、金属製の銀色のボディのもので、まるでおもちゃのラッパのような形状をしていた。


当時の懐中電灯はラップの芯ほどの太さのグリップに、小さなお茶碗のような形をした発光部分が取り付けられていた。


そして発光部分とグリップのつなぎ目あたりには、「ON、OFF」の切り替えスイッチが付いていた。


ちなみにこのスイッチも本体と同じ金属製で、今と違ってボタン式ではなく、前方にスライドさせることでスイッチが「ON」になり、電球が点灯する仕組みになっていた。


このスライド式のスイッチには欠点があって、懐中電灯が新しいうちはいいのだが、古くなって来ると、スイッチの隙間にホコリやゴミが入り込み、年々スイッチが重たくなって来るのだ。


ただ単に懐中電灯を点けるだけなのに、スイッチをスライドさせる親指にはかなりの負担がかかっていたものである。


子供の頃は片手の親指だけではスイッチが動かず、両手を使って点けていたのを、今でもはっきりと覚えている・・・・・・。


そして当時の懐中電灯は、今のものと比べると、信じられないくらい重たかった。


ボディが金属製だったこともあると思うが、それに加えて使用する乾電池が、太い単一乾電池だったことがその要因になっていたと思われる。


しかも乾電池は1本では足りず、ボディにはきっちり2本が収まっていたのだ。


現在では単一乾電池の出番はめっきり減ってしまったので、その重さはなかなかピンと来ないかもしれないが、単一乾電池が2本入った当時の懐中電灯は、子供にはずっと持っているのが、ちょっと辛いぐらいの重さだった。


スライド式のスイッチのことといい、こうなるともはやちょっとした筋トレグッツである。


当時は今と違って外灯が薄暗かったので、町内会や子供会の行事で懐中電灯の出番が多くて、子供もしばしば持って歩く機会があったので、この重さだけは毎回うんざりしていたものだ・・・・・・。


ちなみに乾電池は懐中電灯のお尻の部分のふたを開けて、中に落とし込むようにして入れる仕組みになっていた。


で、このふたになっている部分には、なぜかクリップのような形をしたフックが付いていて、「これはいったい何に使うのだろう?」と、いつも疑問に思っていたものである・・・・・・。


学校の職員室や用務員室には、赤色灯付きの懐中電灯が置かれていたのを覚えている。


このタイプのものは、スイッチを前方にスライドさせると普通の懐中電灯として使えて、スイッチを後方にスライドさせると、側面の赤色灯が赤く発光するようになっていた。


恐らく赤色灯は非常時に使用するものなのだろうが、実際に使っているところは、結局のところ一度も見たことがなかった・・・・・・。


修学旅行で訪れた旅館の部屋には、壁掛け式の懐中電灯が置かれていた。


形は家庭用のものと変わらなかったが、懐中電灯のグリップの部分に穴が開いていて、ここを壁掛け部分に引っ掛けて収納するようになっていた。


で、この壁掛けタイプのものは、壁に引っ掛けている時は、内部の電池と電池の間に絶縁体が通って、電気が通らない仕組みになっていた。
そして壁掛けから取り外すと、電池と電池が接触して使えるようになっていたのだ・・・・・・。


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▲巨大懐中電灯の内部構造は驚くほどシンプル。この中に大きな単一乾電池がなんと4本も入る・・・・・・。

この金属製の懐中電灯から少し遅れて、プラスチック製の寸胴で巨大な懐中電灯も出回り始めた。


このタイプのものは反射板部分の直径が、金属製の懐中電灯の倍以上もあって、まるで車のヘッドライトを取り外して、懐中電灯に改造したかのような印象だった。


このタイプのものは、懐中電灯のグリップの部分が、反射板とほぼ同じ太さになったため、金属製の懐中電灯のように、手で握って持つことは出来なくなった。


このためこのタイプのものは、上部にラジカセのような持ち手が付けられていた。


そしてこの持ち手の上部には、やはりスライド式の「ON、OFF」スイッチが付いていたのだが、素材がプラスチックになったせいか、年月が経過しても動作はとてもスムーズだった。


ところでこの巨大な懐中電灯は、ボディの色が必ず「赤」と決まっていた。


当時は別に気にもしていなかったが、今こうして振り返ってみると、当時は赤いラジカセが大ブームを起こしている時期と重なるのだ。


恐らくこの懐中電灯は、その赤色ブームに乗っからせてもらったのではないだろうか。
そう考えると、ボディの形状もなんとなくラジカセっぽい気がしないでもない。


で、この寸胴で巨大な懐中電灯にもある欠点があった。


プラスチック製になって、せっかく本体が軽くなったのに、なんと使用する乾電池の本数が一気に4本に増えてしまったのだ。


しかも、またしても重量のある単一乾電池仕様だったので、結局は重いことには変わりがなかった。


いったいなんのために本体をプラスチックに変更したのか、全くもって意味が分からない。


それに本体は倍以上のサイズになったのに、肝心の明るさそのものは、以前のものとたいして変わっていなかったように思う。


そもそも懐中電灯の「懐中」とは、「携帯することが出来る」ことを意味する。
こんなに大きなものをどうやって携帯しろというのか。


そういう意味では懐中電灯はようやく近年になって、本来の意味の「懐中電灯」になったのかもしれない・・・・・・。

2022年2月16日 (水)

ビデオデッキの録画予約とプロ野球中継

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今では考えられないことだが、ビデオデッキが一般に普及する以前は、どうしても残しておきたいテレビ番組は、ラジカセから音声だけを録音して楽しんでいた。


ところが、ラジカセを購入する際に、5千円程度の額をケチって、1つ下の安い機種を買ってしまうと、NHKの放送は入るものの、民放各局の放送が入らない仕様になっていて注意が必要だった。


うかつにもそのような機種を購入してしまった者は、ラジカセ本体のマイクの穴を、テレビのスピーカーに近付けて、直接テレビの放送を録音していたものである。


しかし、そのようにして録音すると、当然のことながら、家族の話し声や、くしゃみ、おならなどの生活音が、少なからず入ってしまうもので、後から聞いてみると、ただの面白テープになっていて閉口したものだ。


今では考えられないような話だが、当時はテレビ番組を録画して、自分の好きな時間に見られるようになるなんて、夢のような話だったのだ・・・・・・。


ビデオデッキが一般に普及し始めたのは、1980年代の半ば頃からだった。


そしてちょうどその頃から、いわゆる「ビデオソフト」が発売されるようになり、レンタルビデオショップが町のあちこちで見られるようになって行った。


最盛期には数百メートルに1件建っているエリアもあって、場所によっては対向車線側にも、向かい合わせて建っている所があったぐらいだった・・・・・・。


また、ビデオデッキが一般に普及したことで、テレビ番組を録画して楽しむことが一般的になって行った。


ところが当時のビデオデッキは、現在の録画機器のように、「番組名」で録画予約をすることは出来なかったので、日付と時間、チャンネルを手動で設定して、録画予約を入れていた。


そしてここで問題になって来るのが、当時大人気だったプロ野球中継だったのである・・・・・・。


当時、プロ野球は「国技」と言ってもいいほど人気のあるスポーツで、巨人戦の平均視聴率は、なんと20%を優に超えていた。


だからテレビ局は、プロ野球中継が予定していた放送時間内に収まり切らない場合は、放送時間を延長して中継を続けるのが、当たり前の時代だったのだ。


逆にそうしていなかったら、今で言うところの「炎上」が起きて、テレビ局の電話が鳴りやまなかったであろう。


現実にぎりぎりまで放送を延長しても、試合終了まで放送が出来なかった時には、そのようなことが起きていたそうである。


それぐらい当時の野球人気は凄まじいものだったのである・・・・・・。


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ちなみに当時の野球人気は、子供たちの間でも例外ではなく、あの頃の小学生はみんな決まって、ひいきのプロ野球チームの野球帽を、まるで示し合わせたかのように被っていたものである。


そして外で遊ぶ時は、ゴムボールとプラスチックのバットを持って、「野球しよーぜ!」が合言葉だった。


また、当時はプロ野球カードが付いたポテトチップスがバカ売れしていた時代でもあり、子供たちはみんな選手のカードを何十枚とコレクションしていて、ダブったカードを持ち歩き、友達と交換したりしていたものだ・・・・・・。


で、話が少しそれてしまったが、なぜビデオの録画予約に野球中継が関係していたのかについてだ。


前述の通り、当時のビデオデッキは、現在の録画機器と違って、「番組名」での録画予約は出来なかった。


このため、日付と時間、チャンネルを手動で設定しなくてはならなかったのだ。


だから野球中継が延長になると、当然その時間に予定されていた番組は録画されておらず、その代わりに何の関係もない野球中継が、きっちりと録画されていたなんてことが起こる訳だ。


また、野球中継の延長を見越して、事前に長めに録画予約を入れておいたとする。


ところが、いったいどこまで放送が延長されるのかが分からないため、後で見返すと半分以上はどうでもいい野球中継が映っていて、見たかった番組は、途中でブッツリと切れていたなんてことが、当時は日常茶飯事だったのである。


それというのも、当時の野球中継は、放送時間内にきっちりと納まる日もあれば、放送時間を30分延長、60分延長、試合終了まで放送など、試合の進み具合やテレビ局の都合で、日によってまちまちだったのだ。


そしてこのことがビデオの録画予約には、非常に悩ましいことだったのである・・・・・・。


私が子供の頃、アニメは今と違って、ゴールデンタイムに、たくさん放映されていた。


だからプロ野球のシーズン中は、野球中継でアニメがお休みになることが多かった。


小学生の頃は野球も見たいがアニメも見たいという、ぜいたくな悩みがあったので、そういう意味でも野球中継は悩ましかったものである。


野球中継は放送時間を延長した枠の番組については、放送時間を変更して(繰り下げて)放送していたが、通常の放送時間内の番組については、お休みが原則だったのだ。


また、当時はドーム球場がまだなかったので、雨の日は野球は当然中止になる。


そうなると、言うまでもなく、いつも通りの番組が放送されることになる訳だ。


関東はいい天気なので、てっきり野球中継はあるものだと思って気を抜いていると、関西は大雨で野球は中止。


録画したかった番組が急遽放送されることになり、大慌てで録画予約を入れるなんてこともよくあった。


しかし、あんまり慌てていたので、うっかり違うチャンネルを指定してしまい、ドラマを録ったつもりだったのに、政治討論番組が映っていたなんて話を、当時はよく聞かされたものである・・・・・・。


(画像上、びっくりするほど花期が長い、桃色の寒椿の花。画像下、雪の翌日、木の枝に雪の花が咲いていた・・・・・・)


2021年9月25日 (土)

「関東ローカルのCM」アリック日進

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▲ここがかつて「アリック日進」があった場所で、当時はダイエー、ビブレ、ヨドバシカメラ、アリック日進が並んでいた。ちなみに建物自体は変わっていないが、当初ビブレは「ニチイ」だった・・・・・・。

かつて横浜駅西口には、相鉄線側の出口から、西に3~4分ほど歩いたところに、「アリック日進」という家電量販店があった。


横浜駅西口にあった店舗は本店で、他にも横浜駅店(旧CIAL内)、鶴見西口店、生麦店、大船店、川崎駅店(川崎BE内)、秋葉原店があった。


そしてこれを見れば、完全に地域ローカルの家電量販店であったことがよく分かると思う。


ちなみに現在はいずれの店舗も閉店しており、面影すら残っていない場所がほとんどである・・・・・・。


私が子供の頃、アリック日進はよくテレビCMを流していた。


もちろん地域を限定したローカルCMであることは言うまでもない。


「アはアートのア、リはリビングのリ、クはクリエーターのク、電気のことから暮らしのことまで、アリック~、アリック~、アリ~ックに~っし~ん ♪」という、オリジナルCMソングは、一度聴いたら耳について離れないほど印象的なものだった。


CMではこの歌をBGMに、まず店員が3名、横並びになって登場する。


ちなみに左から、男性、女性、男性の順で並んでいたと思う。


そして左側の男性店員が、「アリック日進の本分は~」というと、中央の女性店員と右側の男性店員が声を揃えて、「もちろん爆安!」とガッツポーズ。


その後、店内の各売り場が映し出されて行き、「電化製品ならなんでも安い。家電とホビーの専門店、アリック日進は横浜駅西口すぐそば。ごらんの各店もよろしく!」というナレーションが流れるのだ。


で、このナレーションの間にも、映像は次々と切り替わって行き、まずはCM冒頭の3人の店員と、いつの間にかその後ろに集まっていた客が、なぜか店の前でバンザイポーズ。


そして横浜駅西口本店の外観の映像をバックに、「家電とホビーの専門店、ALic日進」と、ロゴマークと店名が大きくテロップで表示され、その下には各支店の名前が小さく並んだところでCMは終了となる。


ところで私は子供の頃、CMの冒頭で左側の男性店員の言うセリフ、「アリック日進の本分は~」が、なんと言っているのかよく分からず、いつも頭をひねっていたものだ。


「本分」なんて言葉は、子供は普段は使わないので、ピンと来なかったのだと思う。


今になって思えば、大人だって日常的に使う言葉ではないと思うのだが・・・・・・。


私は学生の頃、横浜駅西口にあった、アリック日進の本店には、ずいぶんとお世話になったものである。


赤いボディのコンパクトラジカセが流行った時や、ウォークマンが人気だった頃は、決まってこの店へ買いに行っていたのを覚えている。


ラジカセやウォークマンなどの売れ筋商品は、もはや売り場を探すまでもなく、入り口から入ってすぐの場所に、ズラリと並べられて、展示販売されていた。


そしてラジカセからは、80年代(当時)のアイドルの歌声が、決まってカセットテープで流されていて、客の購買意欲をこれでもかと刺激していたものである。


だから学生の頃の買い物は、全て1階の入り口付近で事足りていたと言っても過言ではなかった・・・・・・。


3階には高級オーディオフロアがあって、ウン十万円もするスピーカーセットなどが置かれていた。


そしてこのフロアには、「試聴室」が設けられていて、高級スピーカーの実力を存分に体感出来るようになっていた。


しかし、貧乏学生にはそんな高級品は高嶺の花であり、仮に買えたとしても置く場所がなく、無用の長物であったことは、もはや言うまでもない。


貧乏学生には勉強机の片隅にちょこりと置ける、赤いコンパクトラジカセがちょうどよかったのだ・・・・・・。


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▲建物の左側へ回り込んで、ドン・キホーテの看板を見上げると、なんと「アリック日進」の文字がそのまま残っている。もしかしたら、看板の正面も、ドン・キホーテのパネルを剥がせば、当時のままの姿なのかもしれない・・・・・・。

アリック日進はCMにもあった通り、「家電とホビーの専門店」がキャッチコピーだった。


今でこそ家電量販店でホビーを扱うことは当たり前になっているが、当時はこんなことを実践している店はここぐらいだった。


ホビー売り場は地下1階にあり、エスカレーターで下りて行く時に、ガラス越しに売り場をぐるりと一周するレールが見えていて、そこを大きな汽車の模型が走行しているのを目撃することが出来た。


この汽車の走る様子を見たいがために、何度も1階からエスカレーターに乗り直す子供がいたものである・・・・・・。


ホビー売り場では鉄道模型のみならず、ラジコンやプラモデルなどもたくさん取り扱っていた。


ラジコンと言っても、おもちゃ屋さんで売っているような小さなものではなく、実際にエンジンで動く本格的なものだった。


中学生の頃、友達がこの店でラジコンカーを買ったというので、見せてもらったのだが、想像していた物とは違って、両手で持たなければ持てないほどの大きなものだった。


そして車のボディカバーを取り外すと、内部は機械部品と配線で構成されていて、おもちゃのラジコンとは訳が違うことを思い知らされたものだ。


ラジコンというと、車の印象が強いと思うが、ここには1メートル以上ありそうな、巨大なラジコンヘリなども置かれていた。


「こんな大きなものが本当に空を飛ぶのだろうか?」と、子供ながらに眺めていたものだが、考えてみたら本物のヘリコプターはもっと巨大なのだ。


ラジコンとはいえ、エンジンを搭載しているのだから、飛ばない訳がないではないか・・・・・・。


アリック日進の横浜駅西口本店は、最上階がレストランフロアになっていた。


いや、レストランというよりも、昔のデパートに入っていた、昔ながらの食堂や純喫茶のような、「レトロな佇まいの店」と言った方がいいのかもしれない。


入り口には色とりどりのパフェやクリームソーダ、スパゲティなどの食品サンプルがズラリと並んでいて、いつもそれを穴が開くほど眺めてから店内に入っていた。


店内は通路も広いし、テーブルとテーブルの間も、十分に間隔が開いていて、他人を気にせずに寛ぐことが出来た。


いま考えると、当時は家電量販店にレストランフロアがあったのは、横浜ではここだけだったように思う。


ホビーの取り扱いといい、そういう意味ではアリック日進は、時代を先取りした店だったと言えるのではないだろうか・・・・・・。


冒頭にも書かせてもらった通り、現在アリック日進は、いずれの店舗もすでに閉店している。


横浜駅西口本店だったビルは、現在はドン・キホーテになっている。


しかし、建物自体は当時と何も変わっておらず、まるでガンダムの胸部のような形をした、独特なフォルムも当時のままである。


ちなみにアリック日進だった頃は、全体に真っ白なカラーリングの建物だった。


そして建物上部の大きな看板には、左側に赤いバラの花を模したロゴマーク、そして緑の小さな文字で「ALic」、更にそのすぐ隣には、赤い大きな文字で「日進」と掲げられていた。


現在は黒地の看板に黄色い文字で、大きく「ドン・キホーテ」と書かれているが、じつは建物の左側に回り込むと、看板の側面に赤いバラのロゴマークと、「ALic日進」の文字がしっかりと残されている。


いったいどういう理由で、ここだけ店名が残されているのかは定かではないが、私はこの看板を見かけるたびに、あの頃の記憶がふとよみがえるのである・・・・・・。

2020年8月 7日 (金)

昭和のテレビ事情2

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未だにテレビのチャンネル番号を、アナログ放送だった頃の番号で言う人がいる。


かく言う私も、会話の中でうっかりアナログ時代の番号を言ってしまうことがある。


やはり昭和の頃から慣れ親しんだチャンネル番号は、しっかりと頭の中に刻まれていて、そう簡単にアップデート出来るものではなかったのだ・・・・・・。


テレビがアナログ放送だった頃、私が住む地域では、テレビ各局のチャンネルは次のように割り当てられていた。

(1)NHK総合
(2)空きチャンネル
(3)NHK教育
(4)日本テレビ
(5)空きチャンネル
(6)TBSテレビ
(7)空きチャンネル
(8)フジテレビ
(9)空きチャンネル
(10)テレビ朝日
(11)TVK(テレビ神奈川)
(12)テレビ東京


そしてこれがデジタル放送に切り替わるタイミングで、チャンネルの割り当ても次のように変更になった。

(1)NHK総合
(2)NHKEテレ
(3)TVK(テレビ神奈川)
(4)日本テレビ
(5)テレビ朝日
(6)TBSテレビ
(7)テレビ東京
(8)フジテレビ


デジタル放送になってチャンネルが変わったのは、(3)のNHK教育が(2)へ移動し「Eテレ」に名称変更、(11)のTVKが(3)へ移動、(10)のテレビ朝日が(5)へ移動、(12)のテレビ東京が(7)へ移動した。


早い話がアナログ放送当時の「空きチャンネル」にきっちりと詰めて入ってもらったことになる訳だ。


いま考えると、そもそもなんのために「空きチャンネル」を設けていたのか謎である・・・・・・。


そしてこのことは、ただ単にチャンネル番号が変わっただけではなく、新聞の番組表の配置も変わることにもなり、変更になった直後はとにかく多くの人がたいへん混乱したものである。


まず、(12)のテレビ東京が(7)に変更になり、(6)のTBSの右隣に移動したことが、いつまで経っても慣れなかった。


そしてアナログ放送の頃は、テレビ東京のスペースになっていた番組表の右端は、デジタルになってからはフジテレビのスペースになっていて、変更になった直後はフジテレビの番組表をテレビ東京のものだと思い込み、「あれ、おかしいな」を何度も連発していたものである・・・・・・。


また、番組表と言えば、デジタル放送になって、テレビ朝日が日本テレビとTBSに挟まれているというのも、なかなか慣れなかった。


アナログ放送の頃は、(4)日本テレビ、(6)TBS、(8)フジテレビ、(10)テレビ朝日で、これまでの人生ずっとその配置で慣れ親しんで来た訳だから、「今日からテレビ朝日は(5)チャンネルになって、(4)の日本テレビと(6)のTBSの間に移動しますよ~」なんて言われても、そう簡単に頭の中をパッと切り替えられる訳がなかった・・・・・・。


NHKのEテレ(元の教育テレビ)が(2)チャンネルなったことは、「NHKのチャンネルは2つ並んでいる」と理解して、すぐになじんだのだが、未だにアナログの頃の(3)チャンネルのイメージが強く、人と会話をする時についつい「(3)チャンネル」と言ってしまうことが多い。


また、テレビのリモコンでEテレに合わせたつもりが、TVK(テレビ神奈川)が映っていて、「あ、(3)じゃなかった!」ということもよくあることだ・・・・・・。


年配の人の中には、そもそも変更になったチャンネル番号を覚える気がさらさらなく、昔のアナログ放送当時のチャンネル番号で、未だに会話をして来る人がいる。


そのような人と会話をする時は、この人はいったい私に何を伝えたがっているのだろうということを、推理しながら話を聞かねばならず非常に疲れる・・・・・・。


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アナログ放送の頃はよくあったのに、デジタル放送になって見なくなったテレビの光景に、「おそれいりますが、しばらくお待ちください」の静止画像がある。


アナログ放送の頃は番組の放送中に、見ていた映像が突然止まってしまい、「おそれいりますが、しばらくお待ちください」の画面に切り替わることがよくあったのだ。


確かほとんどの局は青バックの画面に白の文字で、「おそれいりますが、しばらくお待ちください」と書かれた、シンプルな画面だったと思う。


早ければ30秒ほどで復旧するのだが、遅い時は3~4分近く待たされることもあった。


あまり長いと、「もしかして自宅のテレビが壊れたのか?」と、いらぬ心配をしてしまうのだが、「しばらくお待ちください」の画面が出ている場合は、あくまでもテレビ局側の問題だった。


復旧しても1分もしないうちに、また、「しばらくお待ちください」の画面に切り替わることもしばしばあった。


そしてそれを2回も3回も繰り返されると、「いったいどうなってるんだよ!」と、テレビの前で切れている隣人の声が聞こえて来たりして、「みんな同じチャンネルを見ているんだね!」と、家族で顔を見合わせて思わず笑ってしまい、イライラが少し解消されることもあったものである・・・・・・。


人気のドラマを放送中の時などは、イライラしている人がかなり多かったようだ。


そしていざ復旧してみると、VTRが止まっておらず、しばらくお待ちしていた間に、いったい何が起きていたのか分からずじまいで、ストーリーがよく分からなくなっていることも多く、視聴者を唖然とさせたものである。


また、客を入れた生放送番組では、お客さんがいるので進行を完全に止めてしまうという訳にもいかず、復旧した時にみんなで爆笑していたりすると、いったい何がそんなにおかしいのか気になって仕方がなかったものだ・・・・・・。


野球中継ではしばらくお待ちしている間に、満塁ホームランが出ていたりして、この試合の一番の盛り上がりの場面を、「しばらくお待ちください」の画面に阻まれて見られなかったということもよくあった。


しかも映像が復旧した直後は、まだバッターは一塁ベースを回っているところで、「あと、10秒早く復旧していれば、ホームランの瞬間を見られたじゃん!」ということもよくあった・・・・・・。


プロレス中継でも同様のことがよくあった。


映像が復旧した瞬間には、レフェリーのカウントがすでに「2」まで進んでおり、こちらとしては「え~~~!」という気分なのだが、生放送なので待ってはくれず、すぐに続けて「3ーっ!」とカウントが入り、「カン、カン、カン、カ~ン!」と無情にも試合終了のゴングが打ち鳴らされることになるのだ。


ひいきの選手が勝ったのはいいが、いったいどんな技がフィニッシュだったのか、これではさっぱり分からない。


プロレスはスポーツニュースで取り上げられることもないし、現在のようにインターネットも普及していなかったので、その試合の流れを知るためには、一週間後に発売になるプロレス専門誌を待つしかなかった。


気分的にはこっちが正に試合終了、ジ・エンドである・・・・・・。


(画像上、畑の縁で咲くオニユリの花。画像下、かわいいテングタケの三兄弟)


2020年7月26日 (日)

昭和のテレビ事情

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ブラウン管テレビが全盛だった昭和の頃、テレビはまるで家具のようなデザインだった。


ブラウン管テレビは、テレビの後ろの部分が後方に大きくせり出していたので、それを隠すようなデザインのものが多かったように思う。


当時のテレビは画面の周囲が木で出来ていて、日本家屋によく合う家具調のデザインのものが多かった。


また、今の薄型テレビでは考えられないことだが、テレビ本体に4本の円筒形の足が生えたようなものや、テレビ台と一体になったようなデザインのものもあった。


ブラウン管テレビは、テレビの上の部分の面積が広かったので、ちょっとした台のように使われることも多かった。


旅行の時に買った、小さな置物が飾ってあったり、写真立てが立ててあったり、ネコのいる家ではネコが必ず寝ていて、テレビを見る時にネコの足がじゃまだったりしたものだ・・・・・・。


また、ブラウン管テレビの頃は、地域によっては電波が安定せず、屋根の上のアンテナ以外に、テレビの上に小型の室内アンテナを置くことをすすめられることも多かった。


うちでは全体的に見れば、映りが悪いということはなかったが、なぜか6チャンネル(TBS)だけが、受信状態があまりよくなかったのを覚えている。


それと自分の住んでいる地域のテレビ局が割り当てられるUHFのチャンネル(通称Uチャン)もどうも映りが悪かった。


それもただ映りが悪いだけでなく、映像がノイズやゴーストだらけで見苦しく、とても長時間見ていられるレベルではなかった。


自分の家から一番近くにある地元のテレビ局が、こんなにも映りが悪いなんていったいどうしてなのかと、いつも疑問に思っていたものである。


どうでもいいが、今の若い世代に「Uチャン」なんて言っても、きっと全く話が通じないのだろうなぁ。
時代の流れを感じずにはいられない。


それに今考えると「Uチャン」って、いつの間になくなったのだろう・・・・・・。


私が幼い頃、テレビのチャンネルはまだダイヤル式だった。


テレビに現在のようなリモコンはまだなくて、チャンネルを変えたい時は、テレビ画面の横に付いている「摘まみ」を摘まんで、ガチャガチャと回すことでチャンネルを変えていた。


このため当時はテレビを見る時は、テレビの近くに家族で集まって見ていたものである。


現在のようにテレビから離れた場所にある、ソファーなどに座ってテレビを見るなんて考えられないことだった。


またテレビが古くなって来ると、ダイヤル式の摘みが「スポッ!」と取れてしまうことがよくあった。


ダイヤルが取れてしまうと、「壊れた~!」と一瞬あせるのだが、ダイヤルをそのまま軸の部分に「カポッ!」とはめてしまえば、なんと普通に使うことが出来た。


しかし一度ダイヤルが外れてしまうと、そのうちにだんだん緩くなって来て、すぐにダイヤルが外れてしまうようになって来る。


そうなると、もう元に戻すことを諦めて、ダイヤルの軸の部分(ここにダイヤルを差し込む構造になっている)をペンチで挟んで、「ガチャ、ガチャ」と回すことで、強引にチャンネルを変えていることもあった・・・・・・。


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テレビにリモコンがなかった頃は、テレビを消す時は、テレビ本体の電源ボタンを押してテレビを消していた。


リモコンがないのだから当然である。


このため当時のテレビは、電源ボタンが今よりもずっと大きくて、テレビ前面の目立つ場所に付いていた。


そして面白かったのは、当時のテレビは電源をOFFにすると、画面中央に向かって、放送中の画面がスーッと小さくなって行き、最後は光の点のようになって、「ブツッ!」と消えていた。


それはまるで、テレビという箱の中から出て来た別の世界が、再び箱の内部に帰って行くような不思議な光景だった・・・・・・。


家庭用のゲーム機のファミコンが発売になった頃、ブラウン管テレビはそれまでの家具調のデザインから、まるでオーディオ機器のような、グレーや黒を基調とした、シンプルなボディデザインにシフトして行った。


ファミコンとテレビで思い出されるのは、今のゲーム機と違って、ファミコンはとにかく接続が面倒だったことだ。


ファミコンには「RFスイッチ」という、テレビのアンテナ入力端子と、ファミコン本体を接続するための機器が別に付属されていて、これを介してファミコンをテレビと接続していた。


ところが素人には、テレビ放送とファミコンの両方を使えるように、RFスイッチを接続することはけっこう難しく、わざわざ電気店に頼みに行く家庭も多かった。


そういう意味では、今のゲーム機は接続が簡単で楽チンになり、パッとつなげてすぐにゲームを始められて「いいな~」と思う。


ファミコン時代を知る者としては、「いい時代になったものだな~」とつくづく思う・・・・・・。


現在の薄型テレビは、画面はフラットでまっ平である。
ところがブラウン管テレビは、画面がまるで凸レンズのように丸く、こんもりと出っ張っていた。


「そんな形だと見ずらいんじゃないの?」と思われそうだが、決してそんなことはなくて、映像を見ている時には、その丸さはまるで気にならなかった・・・・・・。


また、当時のテレビはどういう訳か、静電気がすごかった。


画面のホコリが気になって、ティッシュで拭こうとすると、手にフワッとした感じが伝わって来て、画面に触れた途端に、「バチバチ」という静電気の洗礼を受けることになるのだ。


また、テレビの前を通っただけで、腕にフワリとした静電気の層を感じることもしばしばあった。


画面に帯電している静電気は意外としつこくて、翌朝になっても、まだそのまま残っていることが多かったものだ。


テレビのスイッチを入れようとして近付いた途端に、フワリとした静電気の層を感じて、「おおっ!」と驚いて手を引くこともよくあった・・・・・・。


最近の薄型テレビではそんなことはなくなって、当時を知る者としては、安心してテレビに触れることが出来るのは嬉しいのだが、なんだか張り合いがなくなって、つまらなくなった気がしないでもない・・・・・・。


(画像上、一年ぶりにゴマダラカミキリと再会した。画像下、草地にキノコがたくさん出ていた)

 

2020年2月27日 (木)

カセットテープの思い出

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私が子供の頃は音楽の記録メディアと言えばカセットテープだった。


レコードやCDをカセットテープに録音して自分の部屋で聴いたり、外へ持ち出して友達と共有したりしていたものだ。


当時は欲しいと思うレコードやCDはたくさんあったが、子供にはレコードやCDは高い買い物で、とても一度に何枚も買うことなんて出来なかった・・・・・・。


そんな子供たちの救世主となったのがレンタルCDショップだった。


80年代から90年代にかけて、レンタルCDショップは、まるで雨後のタケノコのように街のあちこちに新設されて行った。


欲しいレコードやCDはたくさんあるのに、お金がなくて買うことが出来ず、悶々としていた子供たちも、レンタルCDショップが出来たことで、レンタルでCDを借りて来て、カセットテープにダビングして音楽を楽しむことが出来るようになったのだ。


レンタルCDショップの誕生で、カセットテープの需要は一気に跳ね上がり、当時は様々なメーカーから、じつに多くの収録時間のカセットテープが大量に販売されていた。


カセットテープにはA面とB面があって、パッケージに記載されている収録時間は、A面とB面を足した合計ということになる。


当時見ることが多かった46分テープなら、片面は約23分ということになる訳だ。


ちなみになぜ46分などという、中途半端な収録時間のものがあったのかというと、これは初期の頃のLPレコードが、片面23分の収録時間だったからだと言われている。


46分テープはそれを録音するのに最適な時間のテープとして販売されるようになり、CDになってもそれがそのままラインナップに残ったということらしい・・・・・・。


しかし、個人的には46分テープはほとんど買ったことはなくて、私がよく買っていたのは54分か60分のどちらかだった。


なぜかというと、当時のCDのアルバムは、収録時間が52~53分ほどのものが最も多かったからだ。


CDの収録時間が53分〇〇秒とかだったら、54分テープにぴっちり入れた方が無駄がなくて気持ちがいいのだが、じつはそんな単純な話ではなかった。


前述の通り、カセットテープというのはA面とB面があり、パッケージに書かれている収録時間はその合計だ。


だから54分テープなら片面は27分ということになり、どこかでカセットテープを裏返さなくてはならなくなる。


問題はどこまでがA面に入るかで、曲の長さによっては早めにB面に裏返さないと、曲が途中で切れてしまうことになるのだ。


だからA面にまだ余裕があるにも関わらず、B面に裏返さなければならないこともあり、そうなると54分テープとはいうものの、まるまる54分は使えないことになり、CDの収録時間が53分〇〇秒であっても、全曲を54分テープに入れることは困難になって来る。


CDのアルバムの曲順を入れ替えることで、テープにきっちりと収めるという裏技も可能だったが、当時はアルバムというのは、何かしらの意図があって、その曲順になっているということも少なくなかったので、出来るだけCDの曲順通りに聴きたかったのである。


それを回避するためには、初めから余裕のある60分テープをチョイスするべきなのだが、そうすると意外と無駄なくきっちり収まったりして、今度はテープが余ってしまい、「もったいない」という心理が生まれて来る。


そこでテープの余った部分に、手持ちのCDのお気に入りの曲を入れてみたりするのだが、曲の終わりの方の十数秒が入らずに、頭を抱えることもしばしばあった・・・・・・。


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自分でダビングしたカセットテープには、CDのジャケットからタイトルや曲名を書き写して、オリジナルのインデックスカードを作って入れていた。


男子の場合はインデックスカードを作ると言っても、カセットテープに付属のインデックスカードに、CDのタイトルや曲順を手書きの汚い字で、ただ書き写して入れているだけだった。


しかし、女子の場合は、インデックスカード一枚作るのにも凝っていて、わざわざ市販のカラフルなカードを買って来て、付属の物と入れ替えて使っていた。


しかも、インデックスカードに手書きで書き込むのではなく、「レタリングシート」というのをわざわざ買って来て、文字を転写していたのだ。


レタリングシートにはアルファベットやひらがな、カタカナ、そして様々な書体の文字の物があって、これを一文字ずつインデックスカードの上でこすることで、文字を移すことが出来るのだ。


男子から言わせれば、「面倒くさいこと、この上ない」作業なのだが、当時女子の間ではこれがブームになっていて、レタリングシートの束を袋に入れて持ち歩いている者もいた。


それを見た男子はみんな、「あんなに大量のレタリングシートをどうするんだろう」と疑問に思っていたものだが、女子に言わせると、使用頻度の高い文字というのがあるそうで、それらはすぐになくなってしまうのだという。


逆にあまり使わない文字は、いつまで経っても残っているのだが、よく使う文字がすでにないので、新しいシートを買わない訳にはいかなくなる。


そこで予備を何枚も買っておくため、束になっているのだそうだ・・・・・・。


いつだったか、私が持っていたカセットテープを、隣の席の女子が「ダビングしたいから、貸してもらえないか」と聞いて来たことがあった。


「うん、いいよ」と快く貸してあげたのだが、翌日、「ありがとう」と返って来たカセットテープは、きれいな水色のインデックスカードに変わっていて、レタリングシートを使ってきれいに文字が転写されていた。


昨日まではカセットテープに付属している、なんの面白みもないインデックスカードに、ミミズが這ったような文字で、タイトルや曲名がだらしなく書かれていたのがうそのようである。


それはまるで店で売られている商品のような素晴らしい出来映えで、ちょっと感動ものだった。


隣の席の女子はもともと入っていたインデックスカードも返してくれたのだが、「これ、スペルが間違いだらけだったよ」と、赤ペンで数ヶ所直されていて思わず絶句した・・・・・・。


カセットテープのインデックスカードというのは、市販のレコードやCDで言うところの、ジャケットに相当するものだと私は思う。


現在のように音楽がネット配信されていなかった時は、レコードやCDのジャケットというのはとても重要で、なくてはならないものだった。


欲しいレコードやCDが複数ある場合、全部は買えないので、お店でジャケットの写真やデザインを見て、どれにするか決めることもよくあった。


また、当時は発売日にレコードやCDを買うと、ジャケット写真とリンクした、ポスターやちょっとしたグッツを貰えることがよくあって、ちょっと得した気分になったりもしたものだ・・・・・・。


現在ではネット配信で、音楽が手軽に手に入るようになり、お店でCDを買わないと言う人にとっては、ジャケットなどというものは、もはや意識の中からなくなりつつある。


便利になったのはいいのだが、なんだかつまらない世の中になったものだな~とつくづく思う・・・・・・。


(画像上、早咲きの河津桜の花。画像下、甘い香りを漂わせながら咲くシナマンサクの花)

2019年11月 5日 (火)

赤いコンパクトラジカセの思い出

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ラジカセという言葉はもはや死語になってしまったのだろうか。


現在ではラジカセの名前の一部にもなっているカセットテープ自体を、お店で全く見かけなくなってしまったのだから、それも無理のない話かもしれない・・・・・・。


ところで、「そもそもラジカセとは一体なんなのか?」と思っている人のために一応説明すると、「ラジカセ」とはラジオとカセットテープレコーダーが一体になったオーディオ機器のことをいう。


「ラジオカセットテープレコーダー」を略して「ラジカセ」というのだ。


レコード全盛の時代、ステレオ(現在のコンポ)は大きくて重量があり、置き場所が限られるものだった。


学生の頃は自分の部屋にステレオがあるやつなんて皆無で、レコードを聴くためには、ステレオが置かれている部屋へ、わざわざ出向かなくてはならなかった。


ということは、レコードをかければ、その音楽は自動的に家族にも聴かれることになる訳で、「もっと手軽に自分の部屋で音楽を聴けたらいいのにな~」という声から生まれたのがラジカセだった。


ラジカセが誕生したことで、レコードをカセットテープに録音して、自分の部屋で音楽を聴いたり、ラジオを聴いたりすることが出来るようになったのである。


それにしても、こんなことをいちいち説明しなくてはならない時代がやって来るとは思ってもみなかった・・・・・・。


私の記憶にある最も古いラジカセは、私が幼いころに父が持っていたA4サイズほどの大きさのもので、右半分に大きなスピーカーが一個付いていて、左半分がカセットデッキになっていた。


色は黒一色で、見た目はラジカセというよりも、ラジオの印象が強かったと思う。


当時はラジオやラジカセは、このような長方形の黒っぽい色合いのものが多かったのだが、私が小学校低学年のころに、そのイメージを一新するラジカセが発売になり話題になった・・・・・・。


サンヨーから発売された、「おしゃれなテレコU4」は横に細長い斬新なフォルムで、左右に一つずつスピーカーを配して、中央にカセットデッキが一個付いていた。


ボディカラーはなんと真っ赤で、それまでのラジカセの地味なイメージとは真逆の派手な色に、当時は誰もが衝撃を受けたものである・・・・・・。


それにしても、なんで私がこんなにも鮮明に、このことを覚えているのかというと、当時「おしゃれなテレコU4」はテレビCMはもちろん、雑誌など出版物にも大きく広告を出していて、「見ない日はない」というくらい大々的に宣伝をしていたのだ。


テレビCMではラジカセと同じカラーの、赤のビキニを付けたお姉さんが、大きな黄色いサーフボードと、コンパクトな赤いラジカセを持って、ニコニコ笑っていたのを今でもはっきりと覚えている。


しかし、それが誰だったのかと聞かれるとちょっとよく分からない。
そもそも小学校低学年では、そんなことにはあまり興味はなかったのだ。


当時の私はアイドルや音楽にも全く関心がなかったので、話題にはなっていても、そのラジカセが欲しいとはこれっぽっちも思わなかった。


私がアイドルやラジカセに興味を持ち始めたのは、同級生の誰もが色気付いて来る小学校高学年になってからだった。


そしてこのころには、ラジカセはダブルデッキに進化していて、テープからテープへダビングが出来たり、連続再生の機能が付いたりしていた。


家電量販店ではラジカセは最も売れる商品となり、棚にはずらりと各メーカーのラジカセが並べられていた。


当時のラジカセのボディーカラーは赤が主流で、いちおう色違いの黒もあったものの、流行りの赤を選ぶ客が圧倒的に多かったという。


ちなみに当時私が悩んだ末に購入したラジカセは、TOSHIBA「SUGAR」で、やはりボディカラーは赤を選んでいた。


TOSHIBA「SUGAR」は、当時アイドルだった原田知世さんがCMをやっていたので、覚えているかたも多いのではないだろうか。


私は別に原田知世ファンという訳ではなかったが、異様なくらい横に長い斬新なフォルムが気に入って、これに決めたのを覚えている。


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この頃のラジカセはボディに録音用のマイクが内臓されていた。


ボディの片隅に爪楊枝を「プスッ!」と刺して開けたような、小さな穴がポツリと開いていて、これがマイクになっており、ここに話しかけることでテープに自分の声を簡単に吹き込むことが出来たのだ。


当時は誰もが一度は使ったことがある機能だと思うが、ほとんどの人はテープに吹き込まれた自分の声と、自分が普段しゃべっている声のギャップがあまりにも大きくて、ショックを受けたのではないだろうか。


テープに吹き込まれた自分の声は、「とてつもなくヘンな声」に聴こえるのだが、「他人にはこのように聴こえているのだ」と聞かされ、「もう一言も声を発したくない」とふさぎ込んだものである・・・・・・。


また、私はラジカセの録音機能を利用して、おならが出そうになるたびにラジカセに尻を向け、おならをテープに録音して行き、自分の「おならメドレー」を作り上げて行くという作業に熱中していた時期があった。


あとからそのテープを再生してみると、延々と自分のおならが、「ブー、ブーゥ、ビー、プー、プ~ゥ」などと聴こえて来て、あまりのバカバカしさに、床を転げ回って大笑いしたのを覚えている・・・・・・。


ラジカセと言えばAM、FMラジオだけでなく、なぜかテレビの音声も受信することが出来た。


テレビなのに肝心の映像がなくて、音声だけでは何の意味もないと思うのだが、なぜこのような機能が付いていたのか未だに謎である。


ラジカセ購入当初はなんの役にも立たないと思われていたテレビの音声受信機能だが、当時はテレビの深夜番組のちょっとHな番組を見たくて、この機能を利用する者が多かった。


小学校高学年ぐらいでは、自分の部屋にテレビがあるなんていう者は皆無で、せめて音声だけでも聴きたいと思って、男子はみんなこれを利用していた。


ただ音声だけでは、「いや~ん」とか「ああ~ん」などと言われても、いったい何が起こっているのか全く分からず、非常にもどかしい思いをして、悶々としていたものである・・・・・・。


この当時のラジカセはコンパクトさが売りで、乾電池を利用することで、ラジカセを持って手軽に各部屋を行き来することが出来た。


ところがこの時は誰も予想していなかったが、この後ラジカセは大型化の道を歩み始めることになるのである・・・・・・。


1982年、レコードに変わる新しいメディアとして、CDの音楽ソフトの発売が始まった。
CDは発売開始からわずか2年ほどでレコードの売り上げを上回る。


そしてその数年後から、ラジカセはCDを再生することが出来る「CDラジカセ」に進化する。


CDラジカセはびっくりするほど巨大なボディで、今考えると現在のミニコンポをはるかに上回る大きさだったように思う。


コンパクトでどこにでも手軽に持ち運べるのがラジカセの良さだったのに、CDラジカセは大きく重い丸太のようなボディで、あまりの重さに据え置いて使うしかなかったのである。


そしてCDラジカセからは、それまでのラジカセのおしゃれでポップなイメージは一切取り払われ、まるで装甲車両のような印象の、真っ黒で重厚なボディに変貌していた。


「重低音」が流行りだしたのもちょうどこの頃で、家電量販店では巨大なCDラジカセから、腹の奥底までズンズン振動して来る重低音が、絶えず鳴り響いていたのを覚えている・・・・・・。


そしてそれから数年後にMDが世に出ると、ラジカセはじょじょにその勢力を縮小して行き、小型軽量化されたミニコンポがオーディオ機器の主流となって行ったのだ・・・・・・。


アイドル全盛と言われたあの頃に青春時代を過ごした私としては、ラジカセと言えばやっぱり赤いボディのコンパクトラジカセを思い出す。


そしてあの頃はどこの家にも勉強机の片隅に、必ず赤いコンパクトなラジカセが置いてあって、勉強の息抜きに音楽を聴いたり、ラジオの深夜放送にハマったりしている者が多かった。


そして思春期というのは、誰でも感情の起伏が激しいもので、笑ったり、泣いたり、怒ったり、叫んだり、踊ったり、恋をしたり、どうにもならないことを悩んでみたりと、今では考えられないくらい、日々さまざまなことを経験していたように思う。


そしてそんな毎日を過ごして行く中、どんな時もラジカセはいつもいっしょで、スイッチを入れればいつもの音楽が当たり前のように流れて来て、その瞬間、高ぶった気持ちをスーッと落ち着かせてくれて、いつもの自分を取り戻すことが出来ていたのだ・・・・・・。


そう、あの赤いラジカセは私にとって青春時代を共に過ごした「戦友」だったのである・・・・・・。

(画像上は林縁で咲くホトトギスの花。画像下は涼しくなって秋のキノコが目立つようになって来た)

 

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